デビューのきっかけは…
ブレイクするまで石川は紆余曲折を経験している。そもそも彼女のデビューのきっかけは、横浜に住んでいた中学3年の夏休み、歌謡教室の友達に代わって出場したフジテレビの『ちびっこ歌謡大会』で優勝したことだ。ここから同局のドラマ『光る海』に出演、プロデューサーだった岡田太郎(今年9月に94歳で死去)から本名の絹代に変えて「さゆり」という芸名をつけてもらう。ちなみに岡田はこの翌年、女優の吉永小百合と結婚している。
歌手志望だったためドラマ出演は本意ではなかったが、結果的に石川はそのおかげで芸能事務所のホリプロにスカウトされ、翌1973年3月には「かくれんぼ」という曲でデビューすることができた。
彼女と前後してやはりホリプロからデビューしたのが1学年下にあたる森昌子と山口百恵である。当初、事務所は彼女たちを「ホリプロ3人娘」として売り出す計画であったが、ほかの2人は同じく『スター誕生!』出身の桜田淳子とともに「スタ誕3人娘」として先に売れた。このため、デビュー曲がヒットとまではいかなかった石川だけ宙ぶらりんになってしまう。
当時から歌唱力は10代歌手のなかでも折り紙付きではあったが、ヒットに恵まれない時期が高校に入ってからも続いた。1976年3月に高校を卒業してからも、前出の阿久悠と三木たかしのコンビが「十九の純情」「あいあい傘」「花供養」と曲をあいついで提供するも、空振りに終わる。
「津軽海峡・冬景色」の誕生秘話
しかし、この年の10月、石川が大阪・新歌舞伎座でのワンマンショーで最後に歌った曲にひときわ大きな拍手が起こり、ショーのあとも事務所やレコード会社に問い合わせがあいついだ。それは、1年の各月ごとに日本中舞台を変えて女の恋を歌うというコンセプトで阿久と三木が企画したアルバム『365日恋もよう』(同年11月発売)の1曲だった。現場での反響を伝え聞いたホリプロ社長の堀威夫(当時)はすぐさまレコード会社の日本コロムビアと話し合い、その曲をシングルカットして翌1977年の年明けに発売してもらう。この曲こそ「津軽海峡・冬景色」であった。
その発売の前日の大晦日、紅白のステージに立つ森昌子や山口百恵を、石川はこたつに入りながらテレビで見ていたという。《ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば噓になります》と、このときの心情をのちに吐露している(『週刊読売』1998年2月22日号)。