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 そうした思いも重なり、新曲キャンペーンにはそれまでになく力が入ったようだ。全国各地まわった先々でも「これは売れるよ」と好評であった。実際、3月に入ると急に売れ始め、50万枚に達するのに時間はかからなかった。先述のとおり5月にリリースされた「能登半島」もこの勢いに乗り、40万枚を売り上げる。

石川さゆり「能登半島」(1977年)

 このあと9月には「暖流」のリリースが控えていたが、レコード会社は「津軽海峡・冬景色」をさらに100万枚まで伸ばすためセールスを強化するので発売を延期したいと言ってきた。しかし堀威夫は「熾火(おきび)を消すな。売れているときに、次の曲をきちんと出さないと、歌手の寿命は短くなってしまう」と猛然と反対、予定どおり発売させた(『朝日新聞』2003年2月22日付朝刊)。

石川さゆり「津軽海峡冬景色」(1977年)。19歳で初出場した紅白では、この曲を披露した

 これが功を奏して「暖流」も25万枚を売り上げ、3作合わせて144万枚のセールスを達成、石川は歌手として確実に地歩を固めた。1977年末には数々の音楽賞を受賞し、前年悔しい思いで見ていた紅白にも初出場を果たしたのだった。このとき石川は緊張するどころか、《うれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、/――お、これが紅白歌合戦のセットかァ…!/要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまった》とか(『週刊読売』1998年3月1日号)。

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23歳で結婚、妊娠発覚で紅白を辞退したが…

 それからというもの石川は紅白の常連となった。1981年にはホリプロで彼女の宣伝担当を務め、のちにライターに転じた馬場憲治と結婚する。その2年後には妊娠がわかり、すでに出場が内定していた紅白を辞退した。

長女を抱える石川さゆり。右は1981年、23歳で結婚した馬場憲治氏(1984年撮影)

 しかし、いまならありえない話だが、NHK側は応援だけでも来てほしいと頼んできた。これに彼女は「生まれてなかったら、行けると思いますが……」とあいまいな返答をしたところ、毎日確認の電話がかかってくるようになる。ついに大晦日を迎え、まだ生まれていないとわかると「じゃ、来てください」と言われ、すでに大きくなったお腹を抱えながら真っ赤なワンピースを着て会場に駆けつけると、応援に参加して依頼に応えたのだった(『週刊読売』1998年4月12日号)。歌手としての出場は途絶えたとはいえ、ステージには立ったので、石川は今年にいたるまで48年にわたり紅白“皆勤”ということになる。