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都はるみを待っていた

 翌1984年2月には予定より遅れて女児を出産した。この年暮れの紅白では、歌手の大先輩の都はるみがデビュー20周年を機に一度引退する(のち1990年に復帰)。大トリを務めた都は歌い終えてステージを降りると、しばらく一人にしてほしいと頼んで楽屋に引きこもった。それから自分でも記憶がないほど茫然自失の状態でいたが、ハッと我に返ると、帰り支度をしてもらうため楽屋を仕切っていたカーテンを開けた。すると、そこには顔を泣きはらしながら小さな包みをかかえた石川が立ち尽くしていたという。都のマネージャーによれば、彼女は自分で直接手渡したいと言って、ずっと待っていたらしい。

 都はるみはこのときのことを翌1985年末、本名の北村春美名義による石川宛ての書簡という形で明かした上で、自分が引退してから1年のあいだ、折に触れて彼女の活動を気にかけてきたと記している。ひるがえってその数年前、都は《私の歌唱法を一変させよう、そしてその新しい歌唱法が受け入れられたら、その証として〈レコード大賞最優秀歌唱賞〉を狙ってみよう》と思い立つと、ただひたすらに歌い続け、その目標を達成した。それだけに都には、このときの石川に対し《歌手として、もがいて、格闘して、また跳んでといった様子が実によく理解できる》と見抜いていた(『Emma』1986年1月10日号)。

都はるみ(1997年撮影) ©文藝春秋

 まさにこの年、石川も「波止場しぐれ」で日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞した。翌1986年にはロサンゼルスとサンフランシスコで初めて海外公演を行うなど、まさに飛躍の時期を迎えていた。

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良妻賢母のイメージを破壊しようとして生まれた「天城越え」

「波止場しぐれ」を作詞した吉岡治が、同年7月に出す新曲で「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」と提案し、伊豆の宿に作曲家の弦哲也、レコードディレクターの中村一好と集まってひそかに議論を重ねていたのも、そのころだった。ここから生まれたのが、彼女の代表曲の一つとなる「天城越え」である。

 もっとも、当の石川はこの詞をもらったとき、夫の不倫現場に踏み込んだ妻が修羅場を演じるというその内容にひどく戸惑ったという。当初は「こんなの私の歌ではありません」と拒否したものの、それこそ吉岡の思惑どおりであった。結局、彼女は悩みに悩んだ末、自分を吹っ切ることでこの歌を受け入れる。