東京・西東京市に、「下野谷(したのや)遺跡」と呼ばれる南関東最大級の縄文遺跡が存在する。都内にあって、国の史跡にも指定される歴史的価値のある遺跡……なのだが、まったくと言っていいほど知られていない。
昭和の宅地開発の波を回避すると、平成にその価値が見直された「下野谷遺跡」。令和のいま、観光資源として再活用された数奇な遺跡は、どのような場所なのか。そこには、縄文遺跡ならではの“観光資源化”の難しさが眠っていた。
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縄文時代の〇〇ヒルズ? 公園に生まれ変わった「下野谷遺跡」
西武新宿線・東伏見駅から、左手に早稲田大学東伏見キャンパスを望みながら進んでいくと、石神井川が現れる。その高台に、「下野谷遺跡」はひっそりとたたずんでいる。
縄文時代は狩猟、漁撈(水産物をとること)、採集などで生計を立てるため、食料を獲得し、定住できる川沿いの高台は超優良立地となる。現代人が「〇〇ヒルズ」に住みたがるように、縄文人も高いところが好きだったのだ。
「下野谷遺跡」は、今から4000~5000年前の縄文時代中期に存在した南関東最大級の環状集落だ。東京ドームおよそ3個分となる約13万4000平方メートルの広大な敷地に、東西2か所の大きな集落があったという。墓とみられる穴(土坑墓)のある場所を囲むように住居跡が見つかり、この一帯が石神井川流域の拠点となる巨大集落であったことが推測される。
と言っても、現在、「下野谷遺跡」は「したのや縄文の里」という愛称で呼ばれる「公園」として生まれ変わっているため、見渡す限り“野っ原”が広がっているだけ。西東京市教育委員会の文化財係に問い合わせると、
「園内にある竪穴式住居は復元したものです。土器片や住居跡などはそのまま土中に保存されている状況になります」
と返答するように、縄文時代のガチの名残は目に見えないのだ。「ここに縄文人が暮らしていたんだなぁ」「どれくらいの人数がいたんだろう」などと想像するしかない。イマジン・オール・ザ・ピーポーである。