消失しやすい材料で作られている日本の遺跡
縄文遺跡は難しい。海外の遺跡は、石で作られているケースが多く、残存しやすい。そのため、「おぉ~立派だな」などと一応それっぽいことを言うことができる。一方、日本の遺跡は木材をはじめ消失しやすい材料で作られているため、形として残りづらい。
例えば、青森県にある日本最大級の縄文集落跡である特別史跡「三内丸山遺跡」を訪れても、同様のイマジンを要求される。復元した6本柱が圧倒的な存在感を誇るものの、「見晴台」「モニュメント」「日時計」と諸説あるため、「結局これはナニ?」というイマジンと向き合うしかない。国内には、環状列石など目に見える縄文遺跡もいくつかあるが、その多くは土中に埋まっているため、難解な海外のドキュメンタリー映画を観てしまったような、咀嚼できない読後感を味わうことになる。
目の前に広がる「下野谷遺跡」も、訪れる者の嚥下力……いや、想像力を試しているかのようだ。グーグルの口コミを見ると、「トイレが立派だった」という身もフタもない感想を真っ先に挙げる人が目立つように、観光地としてはあまりに地味。遺跡のキャラクターである「しーた」(男の子)と「のーや」(女の子)の目も、どこかうつろげだ。
巨大な縄文遺跡が残ること自体が稀有なこと
だが、「下野谷遺跡」をトイレが立派な場所で片づけてはいけない。2015年3月11日の産経新聞朝刊27面には、こう綴られている。
“開発が進む首都圏にある遺跡が発掘・開発されずに残されるのは極めて珍しい”
そう。都内にあって、南関東最大級と称される巨大な縄文遺跡が残っていること自体が稀有なのだ。その背景を、土中から掘り起こしてみたい。
「下野谷遺跡」の周辺は、戦前から畑の耕作時などに縄文土器の破片が多く発見されていたという。当時は、「坂上遺跡」という仮称で呼ばれており、その歴史的重要性は十分に認知されていなかったそうだ。
昭和25年(1950年)に、考古学者の吉田格氏によって紹介されたものの、やはり大きな扱いはない。同じ縄文遺跡であり、西東京市に隣接する東久留米市にある「自由学園遺跡群」は、1936年(昭和11年)4月21日の朝日新聞朝刊上で「あらッ石器よ!」という見出しで、発見の様子が伝えられている。一方、「坂上遺跡」の文字は新聞にはおどっていないことからも、「下野谷遺跡(坂上遺跡)」は影の薄い縄文遺跡だったことがうかがえる。
だが、高度経済成長期になると風向きが変わる。日本各地で宅地開発が行われると、さまざまな場所から土器片や住居跡が見つかり、縄文遺跡や弥生遺跡が多数眠っていることが分かった。その半面、イケイケドンドンの時代背景から開発を進め、消失してしまう遺跡群も少なくなかった。そのため、国内で本格的な発掘調査へと発展するケースが相次ぎ、1972年(昭和47年)、「下野谷遺跡(坂上遺跡)」周辺の地域住民も消失の危機感から声を上げ、「むさしの台地研究会」を創設。遺跡が所在する当時の保谷市(2001年/平成13年に、田無市と保谷市が合併して西東京市が新設)へ調査の実施を提言し、翌年、初となる本格的な発掘調査が実施されることになる。

