その結果、東西に2つの集落があり、いずれも縄文時代の構造をよく表す保存すべき価値の高い大きな集落であることが分かってきた。「下野谷遺跡」と名称が変更されたのは、調査が進む1975年(昭和50年)のことだった。

「本格的な発掘調査が必要」な場合にかかる開発業者の負担

 

集落の規模を表す表示。現在、公園となっている部分は、集落全体の一部にすぎない(筆者撮影)

 現在、「したのや縄文の里」と呼ばれる公園部分は、「下野谷遺跡」全体の一部に過ぎない。これにも理由がある。

「下野谷遺跡」は直径150mの大規模環状集落のため、一帯は文化財保護法で定められた「周知の埋蔵文化財包蔵地」(以下、文化財包蔵地)となる。文化財包蔵地となると、その土地を掘削するために国に「届け出」が必要となり、教育委員会の調査員が現地の調査などを行うことになる。本格的な発掘調査が必要と判断された場合、開発工事着工が大幅に遅れる可能性があるだけでなく、その費用(調査や保存)を開発業者が負担するケースが一般的だという。そのため、負担を拒否するケースもあり、調査が進まない場合もある。

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 興味深いのは、本調査の結果、文化財包蔵地での建設・開発が許可されるケースがあるということだ。例えば、遺跡の記録を残すことを条件に開発許可が下りる場合などである。実際、千代田区一番町の英国大使館跡地で弥生時代の竪穴式住居跡などが発見されたのち、「記録保存」を実施することでマンション建設を再開した三菱地所レジデンスの例などがある。

辛抱強く地域住民と市が見守り続けてきた下野谷遺跡

 下野谷遺跡の東半部(東集落)は、第1種中高層住居専用地域に該当した。そのため、中高層のマンションなどの開発が進み、上記、記録保存調査の後に消滅することになる。しかし、遺跡の西半部(西集落)は第1種低層住居専用地域に当たり、保護を要する範囲にはすでに低層の住宅が建設されていたことから大規模な開発を免れた――という背景がある。開発事業者の手が及びづらい用途地域だった「運」もあって、この遺跡は残り続けることになる。

 もちろん、開発がされずとも、地権者の土地利用に制約が生じることはある。そのため、史跡の候補地となりうる土地の住民たちと対話しながら市は保全活動をしなければならない。1973年から始まった「下野谷遺跡」の本格的な調査は平成期に入ってからも継続され、1997年(平成9年)には5棟の柱穴を発掘。幾度となく住民説明会を開いた様子が、市の議事録(PDF)からも確認できるように、辛抱強く地域住民と市が遺跡を見守り続けてきたことは想像に難くない。

展示パネルの情報もしっかりしている。右下にいるのが縄文キャラクター、「しーた」と「のーや」だ(筆者撮影)

 2005年(平成17年)、西東京市は西集落の一部を買い取り、07年度には「下野谷遺跡公園」として整備し公有地化。ついには、規模の大きさや保存状態の良さから、同遺跡は2015年(平成27年)、国の史跡に指定されるまでになった。1973年の発掘開始から50年の月日を経た2023年には、イベントを開催するなど観光地として再活用する動きも活発化している。「下野谷遺跡」は、地域住民と市政、さらには運も味方につけたことで生き残った、“極めて珍しい”遺跡なのだ。