ソ連崩壊後に民間警備業を起こし、ロシアのテレビ局で警備を請け負った。リトビネンコとはKGBで知り合ったが、関係が深かったわけではない。2人は2004年ごろから定期的に交流し、暗殺の数カ月前から頻繁に接触するようになった。

一方、コフトゥンは1965年にモスクワの軍人の家庭に生まれた。高等軍事指揮学校でルゴボイと再会し、卒業後も同じKGB第9局に勤務した。

ソ連が崩壊した際には、最初の妻と一緒にドイツ・ハンブルクに移り、政治亡命を申請している。その後、ロシアに戻り、ルゴボイにスカウトされ、事業を手伝うようになった。

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実行犯の2人もポロニウムで被爆した

2人はロンドンからモスクワに戻り、病院で被曝障害の治療を受けた。飛行機の座席からは濃度の高い被曝痕が見つかっている。放射性物質による暗殺は確実性を担保できる反面、被曝の痕跡を残す。犯人が「足跡」をつけながら動き回っているのと同じである。

マリーナは当時、容疑者についてどう考えていたのだろう。

「2人がやったと信じていました。ほかの人には動機が見つかりません」

2人はなぜ、自分たちも被曝するような危険物質を使ったのだろう。

「毒物であるとは聞かされていたが、放射性物質だとは知らなかったのかもしれません。その性質を理解していたとは思えない。だから無造作に扱ったのでしょう。警察は容易に痕跡を見つけています。どんな物質かを知っていたら、もっと慎重になったはずです」

その場合、実行犯の追跡はより難しくなっていただろう。2人はだまされて暗殺に加担したのだろうか。

「そうだとしたら愚かです。だから、誰に指示されたのか、真実を打ち明けるべきです。ロンドンでなら真実を語れます。2人は双方(英国とロシア)から圧力をかけられ、身動きが取れなくなっています」

マリーナが書いた「プーチンへの手紙」

捜査が大詰めを迎えていた2007年1月末、マリーナは短時間、自宅に帰るのを許された。ポロニウムによる毒殺と判明した直後に封鎖されて以来、約2カ月ぶりだった。家族3人で暮らした思い出の詰まった家である。