アナトリーの学用品を持ち出す必要があった。台所の果物は、2カ月前と同じところに置いてあり、周辺ではハエが飛び、あちこちに小さな虫がいた。マリーナは私に、映画『羊たちの沈黙』を観たかと聞いてきた。ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが出演し、1991年に製作されたサイコ・スリラー映画である。

「殺人犯の部屋が蛾でいっぱいになるシーンがあるんです。あれを思い出しました」

翌2月から、マリーナが動き出す。プーチンにあてた書簡を米紙ニューヨーク・タイムズに発表した。

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〈もしもあなたと、あなたの国が無実ならば、助けてください〉
〈あなたが英国当局への協力を拒否するなら、何かを隠しているからです〉

書簡でマリーナは、英国の捜査に協力してほしいと呼びかけている。

〈(暗殺について)あなたが最終的な責任を負っていると、私は言っていません〉

と批判的なトーンは抑えられている。公開書簡のアイデアは誰が思いついたのだろう。

「ゴールドファーブ(注:リトビネンコと懇意にしていたオリガルヒのベレゾフスキー氏の側近)です。ロシア政府は捜査をする気がない。だからプーチンに手紙を書くようにと。彼によると、ルゴボイたちの関与は明らかであるにもかかわらず、責任を追及できない可能性が高まっていたようです」

「大使が会いたがっている」と連絡が

返事が来るかもしれないと期待を抱いた瞬間があった。5月になって突然、在英ロシア大使館から連絡が入ったのだ。電話の相手はこう言った。

「大統領に手紙を書いたのはあなたですね」
「そうです」
「返事をしたいと思います。大使が面会を求めています」
「どこに行けばいいのですか」
「大使館に来てください」

マリーナは大使館に入るのが怖かった。夫はプーチンを批判して亡くなった。英国の主権の及ばない大使館では、何が起きるかわからない。

「どこかほかの場所で会えませんか」
「大使の公式会合は大使館内と決まっています。ほかでの会合は許されないのです」