まず手を出したのが、ヤミ米の買い出しだ。千葉の農家で米を買い付けて東京で売ると、1回500円ほど儲かった。この頃(昭和21年)の一世帯当たりの消費支出は平均で月約2000円程度だった。効率の良い稼ぎ方だったことがうかがえるが、列車のなかで財布をすられたのをきっかけにヤミ屋をやめる。

そうした中、ある日、病院仲間に「新生会」という謎の会合に誘われる。行ってみると、それは傷痍軍人の団体の集まりだった。傷痍軍人が街頭募金する光景をドラマなどで目にしたことがある人は多いだろうが、水木たちはその走りだった。

仲間たち7人で街頭募金や行政が所有するビルの占有をするなどして日銭を稼いでいると、仲間内で魚屋を始めたらどうかという話になった。当時、魚は配給制だった。魚屋の免許さえもてば後は週に1回の配給日に魚を配ればいいだけだとそそのかされる。

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とはいえ、隻腕の身。魚はさばけないとためらっていると、誰かに手伝ってもらえばいいからと押し切られ、学生兼魚屋になってしまう。今ならば若手実業家ともいえる身分に期せずしてなったが、本人はあまり乗り気ではない。儲かっていないわけではないが、うまくいっているともいえない。

ゲゲゲには描かれない水木の才覚

実際、この頃は魚屋で身を立てていたというよりも毎日パチンコ屋に通い、1日の糧を得ていた。とはいえ、魚屋の仕事はあるし、大学にも通って病院にも行き、パチンコで稼ぐには忙しすぎた。結局、店を手伝ってくれていた友人に魚屋の権利を4万円で売る。

隻腕の体でできて、忙しくない仕事はないかと探し、魚屋を売ったカネで今度はリンタク屋を始める。リンタクとは今となっては聞き慣れない言葉だが、自転車に客席を取り付けた営業用の三輪車だ。今でも東南アジアの一部では健在の乗り物である。ガソリン不足や、自転車の改造にわずかな費用しかかからない背景もあり、戦後すぐに爆発的に普及した。

水木はリンタクを2万円で買うと、自分では引かずに1日500円で人に貸した。それならば昼まで寝ていて、パチンコで稼ぎ、学校にも行ける。毎日、寝ているだけで、500円の定期収入があるから、貯めておけば1カ月半に1台新しいリンタクも増え、さらに稼げるようになる。風貌からは想像もつかないが、ビジネスの才覚にうならされる。