そうこう食いつないでいると、しばらくして傷痍軍人の仲間から募金活動で地方を行脚しないかと誘われる。「地方は東京より人情があふれている。優しい人が多いから募金活動すればガッポガッポだよ」。

人生を変えた帰省

その頃、水木は学校で衝撃的な発言を聞いていた。「絵描きになるには1000万円ないと生きていけないよ」。つまり、資産家の子どもでもなければ目指すものではない。水木がそれを聞いて、ゲゲゲと驚いたかは知らないが、絵描きとは昔からそういう職業だった。

「絵描きは無理かもしれないが、好きなことをして生きていくには金が必要だ」と改めて実感する。「これは金をもっと稼がないと」と東海道募金旅行に出かけるが、今も昔も都心よりも地方が人情味にあふれているということはない。「裸の大将」や「男はつらいよ」の見過ぎである。傷痍軍人に同情してカネを落とすかどうかは場所の問題でなく、属人的な問題だ。

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実際、小田原で成功した以外は大きな収穫はなく、旅費だけが重くのしかかるようになるのに時間はかからなかった。

結局、旅費が手元にある内に東京に帰り、身辺整理を始めた。授業料は滞納しがちで、友人から服地のヤミ商売をやらないかという誘いもあったが、手持ちの10万円を持って郷里に帰ることにした。この決断が水木の運命を大きく変える。

「水木荘」との出会い

昭和25年(1950年)、帰郷の途中に泊まった、神戸の宿の女将が20万円でその宿を買わないかといってきた。15、16部屋あり、一生寝て暮らせるのではと夢は膨らむ。

その宿には100万円の借金があり、引き継ぐのが条件だったが、それは月賦でいいとなり、「それならば」と、父親に無心するなどしてカネをかき集め、思わぬ形で不動産賃貸業を始めることになる。このアパートは兵庫区水木通にあったため「水木荘」と名付けられた。

お気づきだろうが、これが後に「水木しげる」のペンネームになる。水木しげるのマンガ家人生はここで始まる。