水木は紙芝居を皮切りに貸本漫画、マンガ雑誌と描く媒体を変えながら激動する時代を生き抜くが、水木荘の住人が彼を紙芝居の世界に誘った。

偶然にも紙芝居画家が入居してきて、彼の紹介で紙芝居の仕事を受けるようになる。賃貸収入と紙芝居の二本立てでラクして暮らす生活。絵描きではないが絵に関わる仕事ができる。それも、カネの心配をせずに。

令和の時代からみても夢のような暮らしだが、3年ほどでその計画は実現することなく頓挫する。紙芝居業界は重労働で低賃金。おまけに画料をまともに払ってもらえないこともしばしばあったため、借金は一向に減らない。

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バナナで食いつなぐ日々

結局、「アパートを売って、借金を払ったらどうですか」という借金取りの案に乗る。水木荘を売却し、西宮の今津に家を買い、引っ越す(そこでは1階をパチンコ屋に貸していた)。『墓場の鬼太郎』も『河童の三平』もこの頃にすでに描いていたが全くウケなかった。

話の中身やキャラクター設定の問題以前に、朝鮮戦争による特需やテレビの登場など時代の大きな変化もあり、紙芝居業界全体がダメになっていた。その後、昭和32年(1957年)に背水の陣で再び上京して貸本漫画家に転じるが、相変わらず生活は苦しかったことを水木は述懐している。

原稿料も零細で、それも手に入る前は絶食状態でした。出前をとって居留守を使ったり、腐りかけたバナナを一山いくらで買って飢えをしのいだりもしました。貸本漫画も大手出版社の漫画雑誌が出てきて消えてしまう。世の中が豊かになって借りるより買う時代になったんですね。[『日本経済新聞』1995年8月17日付夕刊五面]

水木が食うや食わずの最底辺の世界を脱し、人並みの暮らしが出来るようになるのは昭和40年(1965年)、『少年マガジン』からの注文で「テレビくん」を描き、講談社の漫画部門賞を受賞して以降だ。売れない貸本漫画家と定評があっただけに「何を考えたのか『少年マガジン』が連載を言ってきた」(「わが狂乱怒濤時代」『別冊新評』1980年10月)と当時の驚きを振り返っている。