ノイズは復活するのか?

三宅 今の若い人たちを見ていると、情報を得る手段がテキストよりも「人」重視だなと思うことがよくあります。

 私の世代は大学に入ると同時にスマホを持って、Twitter(X)も当たり前にあって、ネットといえばテキストベース。バズったツイートが偶然目に入るように、人よりも情報が前にやってくるものでした。ところが下の世代は、YouTubeやTikTokのような動画ベースで人を見ている。「このユーチューバーから得られる情報なら信頼できる」という感じで、人に紐づいた情報を得ている。それこそ推しの論理だなと。

千葉 なるほど、それは考えさせられるものがありますね。組織の仕事なんかは基本的に脱属人化へ、つまり誰がやってもシステムが問題なく機能する方向へと向かっている。それに対してどんな経営でもあくまで人が重要だということは僕もよく言うんですが、その文脈とは違うもっと日常的なところで、情報の取り方がユーチューバーの誰か「この人」と決めた属人的なものになっていると。

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三宅 TikTokで本紹介をしているけんごさんに聞いて驚いたのが、TikTokは尺が短いので、作家名すら言わないということです。あらすじを説明して、題名を言う。ところが、小説紹介において「作家名はもはやノイズ」なのだと。

千葉 なるほど面白いですね。その話を聞くと「批評なんていらない」とノイズ扱いをされている理由もよくわかります。でも、それは人が求めているハレが深い意味でのハレになってない、という問題でもあるかもしれない。本当のハレというのは、正と負がひっくり返っているとか、逆のものがくっつくような事態であって、何か無駄な時空の中に入っていくということをもう一回考える必要がある気がします。

三宅 批評はハレを解体するもののように見られているのかもしれないですね。あるいはトリックスター的なハレはちょっと疲れるから、日常に戻ってきやすいぐらいのハレが求められがちなのが現在だと言えるかもしれません。

千葉 いまの意味や意義が優先される文学や芸術のとらえ方も、情報効率化、つまりタイパ、コスパという広い意味で役に立つということのベクトルの中にあることなんでしょう。でも、それでもノイズをどこかに求めるところがあるから、いまだに芸術はなくならない。

三宅 動画メディア隆盛の時代はまだ続くでしょうから、2025年に広い意味でのノイズが復活するかというと、正直難しいような気がしているんです。でも、異質なものと出会わせてくれるような、遠くて深いところまで連れて行ってくれるような批評や文章、言葉が必要なのは間違いないです。ハレをいかに連れてくるか、私も考え続けたいです。

センスの哲学

千葉 雅也

文藝春秋

2024年4月5日 発売

最初から記事を読む 言葉がフラット化し、ノイズが嫌われるAIの時代に読むこと、書くことをどう励ますのか?