「有限性」とどう付き合うか

千葉 今日みんながハレを求め、それぞれハレの調達方法を持っているとはまず言えるでしょうね。われわれ言語に関わる仕事をしている人間も、そこの一端を担っているところがある。あと、コロナという文脈もあるでしょう。リモート会議の普及もあって世界が無時間的、無空間的になり、自分がいつどこにいるのかわからないような感覚が生じた。でもいま、もう一度特定の時空間にこだわる不便さ、そこから得られる面白さを回復しようとしているんでしょうね。

三宅 身体性、生きている実感を取り戻している感覚がある気がします。例えば私は趣味で着付けを習っているんですが、着物の世界を知ると、季節の変わり目を細かく意識させられます。時期によって着る着物が変わるんですね。そうした季節感は、仕事の場面ではむしろノイズになるかもしれないのですが。

千葉 着付けにしても季語にしても、ある制約があることで工夫の余地も出てくるし、創造が生まれる。何でもいつでも可能だし、何をどう選んでもいいとなったときに、制約とどう付き合うかがいろいろ問題になっているんですよね。

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 もしかすると推しというのも、自分の人生を充実させるために調達してきた仮初の制約に過ぎないのもしれない。「ちょっと違うな」と思ったら突然鞍替えしたり、やめたり、実はそこには本質的な忠誠心はないんじゃないでしょうか。となるとハレの話というのは、いろんなことが自由化した後に、「有限性」と再びどう付き合うかという話なのかなと。

三宅 まさに有限性の話だと思うのは、「推しは推せる時に推せ」という言い方です。いつか推しからは卒業する、だから今こそ推すのだ。小説や言葉を読む行為も実は同じですよね。言葉は基本的に一人の人が書いたものだから、それを読むとき、私はその作者とだけ「対になる」ような感覚があります。映像でも音声でもなく私が本に向かうのは、その有限性を求めているからかもしれません。

 

なぜ「言語化」すること、文体に関心を持つのか

千葉 三宅さんは以前から、文章がどう書かれているか、いかに言語化するかという文体論がお仕事の核にありますよね。時代的な要請がありつつ誰もが「言語化」は難しいと言うなかで、『「好き」を言語化する技術』はそれを後押ししてくれる本ですよね。最大限どれくらい書けばいいか、どういうフォーマットで書いたらいいか、そうした書くための許しをどう与えるかというのも、広くは文体の問題です。ずっとそういう関心をお持ちなのは、なぜでしょうか。

「好き」を言語化する技術

三宅 私はもともと万葉集の研究をしていたのも関係しているのか“文体フェチ”なところがあるんですね。プロの作家それぞれの文体はもちろん、知らない人のブログを読んでいても、その人ならではの文体に触れると嬉しくなる。逆に、流行りの言葉に飲み込まれかけているのを見ると、「あなたのよさはそこではない!」とつい言いたくなってしまったり……。何か他人の固有性のようなものに惹かれるんです。

千葉 現代は言葉がどんどんテンプレ化している時代ですよね。ノイズを排除しないと仕事がやっていられないから、ノイズを持ち込むような読書が嫌われる。だから言語の身体性を大事にするような純文学は、なかなか読まれなかったりする。でも、今のように言葉がフラットになり、情報価値が中心的になりつつある時代に文体という個性のあり方を語るのは、ある種の時代に対する抵抗だという感じでしょうか。

三宅 はい、まさに抵抗です。それこそ情報だったら、究極的にはAIの言葉でいいはず。でもたとえば若い世代で短歌が流行っていますが、35文字という枠組みは同じなのに、みんな違うところがいいなと思うんです。今はどうしてもバズりやすい言葉、ノイズのない情報だけを伝えるシンプルな文体が好かれがちな世の中になっていると思うので、それに引っ張られない、その人固有の価値がより大事になっているのではないかなと思います。

三宅香帆さん

千葉 ネガティブに言うと、分かりやすく人を刺激する方向ですね。だから、もっと多様なあり方が大事だと。