この特集には、MCのなるみ氏が「京大ってなにやってもええの?」と驚くほど、個性的な学生が多く登場。熊野寮祭の名物企画で、京大の近くを流れる鴨川を、真冬に自作のイカダでくだる「鴨川イカダレース」に出るために入学したという学生をはじめ、傍若無人というか、「謎深過ぎる」実態が明らかにされていた。
そして、警察がエンジンカッターで壊そうとしたという鉄扉の傷跡からは、熊野寮が、「ただの学生寮」ではない様子がうかがえる。
なるほど「天才児」が集う場所といえるかもしれない。
ただ、いま、こうした「なにやってもええ」空間は、どこまで許されるのだろうか。
「なにやってもええ」が許されなくなっている
私は、昨年末に出した『京大思考 石丸伸二はなぜ嫌われてしまうのか』(宝島社新書)のなかで、京都大学=自由、というのは幻想であり、自由が不自由とセットだと認識しなければならない、と述べた。
この幻想に関連するのが、拙著の帯にも載せた「折田先生像」である。
もともとの「折田先生像」は、京都大学の前身のひとつ、旧制第三高校(旧三校)の初代校長・折田彦市(おりたひこいち)を讃えるためにつくられた銅像だった。旧三校=京都大学教養部(現在の総合人間学部)キャンパスにあったものの、落書きやいたずらが相次いだため、1997年に撤去される。
しかし、銅像の台座が残ったことなどから、「折田先生像」と称して、人気漫画『北斗の拳』の「ラオウ」を模した張りぼてに始まり、毎年この時期、つまり入試シーズンになると、どこからか、誰かが“張りぼて”を作りつづけてきた。
京都大学准教授の角山雄一氏は、20年以上前から「折田先生を讃える会」としたウェブサイトを運営してきた。
角山氏は、朝日新聞デジタルの取材に対して、2022年から「最初は純粋ないたずらだった『折田先生像』」が、「注目を集めようとコスプレイヤーが多数現れたり、質の低い派生作品が置かれたり、と『悪乗り』が増えていた」ため、サイトの更新をやめた、と答えている。