この「折田先生像」をめぐる動きもまた、熊野寮と同じように、もはや、「なにやってもええ」が許されなくなっている証しなのではないか。
「京都大学=自由」という図式は共有されない
ここには、ふたつのミスマッチがある。
ひとつは、京大関係者同士のミスマッチである。
私が京大に入った26年前どころか、熊野寮の近所に住んでいた15年ほど前でも、まだ、熊野寮に対する警察の姿勢を批判したり、揶揄したりする声が多かったに違いない。すくなくとも、京大生や卒業生といった関係者のなかに、熊野寮へ、表立っては支援せずとも、心のなかでシンパシーを抱く人は少なくなかった。
今回は、家宅捜索どころか逮捕者まで出ている。となれば、かつての京大生なら「国家権力の不当な弾圧」だとして、さらに熊野寮に味方する機運が盛り上がりそうなものの、そうはなっていないのではないか。
「折田先生像」も同様だろう。
「折田先生を讃える会」を運営する角山准教授ですら、「折田先生像」が設置されるやいなやすぐに撤去を求める京都大学について、「コンプライアンスが強化されていく世の中において、大学側の対応は時代の流れだとも思う」と話している。
もちろん、「当局の目はどこに向いているんだろうと思います。学生ではなく、外部に向いているのではないか」と批判する以上、角山氏は、「折田先生像」を作る側に立っている。
けれどもまさに、その角山氏をして「時代の流れ」と言わしめているところに、いまの世の中の空気が見える。「折田先生像」をめぐっても、熊野寮と同じく、京都大学の在学生や卒業生が応援する風潮は目立っているとは言いがたい。
もはや、京都大学=自由、という図式は、在学生にとっても、広くあまねく共有されなくなっているのではないか。
難関大学の学生に向けられる「視線」とは
さらに深刻なのは、「世間とのミスマッチ」である。
先に見たように、熊野寮は、全国の国立大学の学生寮としては、すくなくとも条件面では特殊ではない。ただ、そこに「警察による強制捜査」が入るのは、普通ではない。