「小百合がそばにいればニコニコ」だった大物作家
ノーベル賞作家の川端康成も、吉永に魅せられた一人であった。自身の小説『伊豆の踊子』が1963年、吉永(当時18歳)の主演で映画化されたときには、ただならぬ執心ぶりを示している。
同作で監督を務めた西河克己によれば、《川端さんは小百合ファンだったから、小百合がそばにいればニコニコ。普段は目玉がまん丸で睨まれると恐いのに、あんなに笑った顔は見たことがなかったです。「ロケの雰囲気を見ないとわからないからね」と言って下田のロケ現場に追っかけてきちゃったほど(笑)》というが(『週刊文春』1999年10月28日号)、現場に来てからが大変だったらしい。
関川夏央のノンフィクション『昭和が明るかった頃』(文春文庫、2004年)にはその顛末が記されている。それによると、当日、川端と同行した文芸誌の編集長から西河宛てに「もう下田へ来ている」と電話で連絡があり、西河が「こちらから吉永と相手役の高橋英樹を連れてうかがう」と言うと、「きょうは取材なのでロケ現場を見たい」との返答。まもなくして現場に現れた川端は、西河からの今回の映画に関する質問にもまともに答えず、その視線は徹頭徹尾吉永のみに向けられていたという。
川端は翌日にも現場にやって来た。ちょうど昼食の時分だったので、西河は撮影を中断するも、天気が気になったこともあり、すぐに再開するつもりでいた。しかし、川端は吉永とずっと話し続けており、なかなか撮影に戻れない。そのあいだに雲が広がってしまい、結局、この日の撮影はそのまま打ち切らざるをえなかった。川端は機嫌よく帰ったものの、天候は翌日も翌々日も回復せず撮影は遅れ、結果的に封切りが予定より4日延びたという。
当の吉永は川端の訪問に恐縮したようで、《先生には、天城ロケにいらしていただきました。山道を登って、頂上までいらして下さったんです。申し訳ないような思いになりました》と後年省みている(『週刊文春』2009年4月2日号)。封切り後、川端は鎌倉の映画館で観たが、スクリーンが良くなかったので、東京の映画館で観直したと伝え聞いたという。