小説『帰郷』映画化の許諾もすんなりと
10代の頃の吉永には老大家を魅入らせる力があったようだ。『伊豆の踊子』の翌1964年、今度は大佛次郎の小説『帰郷』を大幅に内容を改変して映画化が企画されたが、難しい人で通っていた大佛なので許すわけがないと思われた。だが、このときも監督を任された西河が吉永を連れて挨拶に赴くと、大佛はすんなりと許諾してくれたという。
これらの出来事から《彼女と同世代の青少年ではなく、そんな社会的立場のある年配者こそが本質的な「サユリスト」なのだと西河克己は考えた》という(前掲『昭和が明るかった頃』)。関川夏央はこれを踏まえ、吉永と同時代の映画スターで戦後的秩序への反抗を象徴した石原裕次郎とも対比しながら、彼女が年配者に愛された理由を以下のように分析する。
《吉永小百合は一九四五年の出生で、戦争の影を背負っていない。彼女は賢そうで明るく、頑張り屋でもある。しかるに必ずしも従順ではない。反抗的というのではないが、かわいく生意気である。典型的戦後人なのに戦前の近代文芸を信じている。老大家たちは石原裕次郎のような危険を感じることなく、理解でき安心できる戦後青年像を彼女に見ることができたのである》(同上)
戦争が終結した年に生まれた
引用文にあるとおり吉永小百合は1945年、東京の代々木に生まれた。誕生日の3月13日は、下町を中心に大きな惨禍をもたらした東京大空襲の3日後である。代々木は山の手なのでさほど被害はなかったようだが、戦争が空襲や原爆などで大勢の死者を出した末に終結した年に生まれたことを、彼女は強く意識しながら人生を送ってきた。あるインタビューではこんなふうに語っている。
《私の中には昭和という感覚はないんですよ。戦後という感覚だけが強烈にあるんです。戦争が終わった年に生まれて、戦後何年というのが自分の年になるんですね。役者の年齢を新聞なり雑誌に書くのは、非常に腹が立つんですけど、私の場合は、戦後何年がそのまま自分の年だというのを、ある意味では誇りに思うんです》(『週刊朝日』1999年5月7・14日号)
吉永が反戦や核廃絶への願いから1986年より原爆詩の朗読を始め、いまなおライフワークとして続けていることはよく知られる。1983年、元首相の田中角栄にロッキード事件で有罪判決が下された直後の総選挙で、野坂昭如が金権政治を批判して元首相と同じ新潟の選挙区から立候補すると、その応援のため現地に駆けつけた……ということもあった。
そうした吉永の活動は、戦後の民主主義のもとで育ったという強い自覚にもとづいているのだろう。それ以前に、ときに頑固なまでに自らの意思を貫いてきた彼女の生き方そのものが戦後的といえる。
次の記事からは、今年で80年を数える戦後の日本とともに歩んできた吉永の半生を、いままでたびたび訪れた転機に焦点を当てながらちょっと振り返ってみたい。
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。


