1カ月か2カ月くらいかけてタイ、ネパールを経由して、友人が留学しているニューデリーを目指したのですが、ネパールのカトマンズで金が尽きてしまった。インドまでの電車のチケットや帰国する航空券は持っていたのですが、食費がない。

お金を振り込んでもらうしかないとカトマンズから実家に電話しました。受話器を取った母は「あんた、いま、どこにおんねん!」と激怒していました。1、2カ月音信不通だったわけですからね。ここは正直に事情を話すしかない。「カトマンズです」と応えたら、母親が「は? ネパール料理屋さん?」みたいな反応だったので「いや、本当のカトマンズです」と。母親は「ウソつきなさんな!」と怒鳴って電話を切ってしまった。

その後、親切なイスラム教徒にご飯をごちそうになりながら、なんとかインドにたどり着き、帰国できました。結局、留学中の友だちには会えませんでしたけど。

ADVERTISEMENT

母親にも呆れられていた

たぶんぼくは、ふつうの人に比べて、危機を察知する能力や、先を考える力が著しく乏しいんですよ。その原因だと感じるのが、中学2年の頃の交通事故。友だちと自転車レースをしていて国道に飛び出してクルマにひかれたんです。意識を失って、1週間くらい記憶喪失になってしまいました。自分の名前も住所もわからない。

1カ月後に退院できましたが、それからいまにいたる30年近くずっと頭のなかに霧がかかったようにボーッとして、意欲が湧かない状態が続いています(笑)。

家族にとって、いまのぼくの生き方は、すべて交通事故の影響ということになっています。

実家にいる頃は、いつも昼過ぎに起きていたんですよ。その日も昼過ぎに起きて、2階の部屋の窓を開けてタバコを吸っていると母親が隣のおばさんと話していました。

「あんたの息子、何してんの?」というおばさんに対して、母親は「ほら、うちの息子は中2で事故に遭ってるから、もう……」って言ってしました。「もう……」ですからね。話している2人を眺めながら「おかんも大変やな」と感じました。そんなふうに42歳までほとんど働かずに実家暮らしを続けました。