10代の時からテレビや雑誌で活動している山城奈々さん(36)。マンバギャルとしてギャル雑誌で活躍し、ギャルサーの2代目総代表も務めたが、19歳の時に芸能界を引退。27歳で再びモデル業を始めた山城さんだったが、31歳の時に子宮頸がんと宣告された。

 そんな波乱万丈な人生の彼女に、ギャルサーの総代表時代、マンバギャルになったきっかけ、子宮頸がんと宣告された時の心境など聞いた。(全2回の2回目/最初から読む)

山城奈々さん

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高校生ギャルサークルの2代目総代表

――学校とギャルモデル、コーディネーターの仕事の両立が大変そうですね。

山城 コーディネーターの仕事は地方出張も多かったんですよ。お祭りでパラパラを踊ってくださいとか。だから地元の高校に通うのは厳しいと思って、定時制の学校に転校したんです。

 今考えると高校生なのにめっちゃ仕事をしていましたね。かなり稼いでいたと思います。それに高校1年生の時から高校生ギャルサークルの2代目総代表をやっていたので、それもなかなか忙しかったです。

ギャル時代の山城奈々さん(真ん中)

ギャルサーの活動とは?

――ギャルサーって具体的に何をやるのでしょうか。

山城 とにかくイベントをして集客するのが目的なんですよ。お客さんを集めて、DJやったり、一緒にクラブで楽しんだりして。で、私たちのギャルサーにはバックにカラコンの会社がついていたので、そこがある程度お金を出してくれていたんです。

 お客さんを集めてカラコンの商品を宣伝することで、その商品も人気が出るし、私たちギャルも有名になるし。一石二鳥ですよね。今でいうインフルエンサー活動的なことをリアルでやっていた感じです。

 

――イベント以外は何するんですか。

山城 定例ミーツっていうのがあって、メンバー20人くらいで渋谷か埼玉に集まって次のイベントをどうするか会議します。次はこんなことをしようとか。

――ギャルサー内で揉めたりは?

山城 特になかったですね。うちのサークルは上下関係も緩かったし、厳しい感じではなかったので。わりとわいわいやっていました。