文春オンライン

90年代の女子高生は「援助交際でもブルセラでも、渋谷で稼いで渋谷で使ってた」

鈴木涼美が歩いた渋谷の20年(前編)

2018/06/17
note

清潔さや安全さを、少なくとも私たちは求めていなかった

 青信号一回あたりの横断者が多い時で3000人、一日に40万~50万人もが通り過ぎるといわれる渋谷駅前のスクランブル交差点。現在では東京で有数の観光名所にもなっており、東京の外国人観光客のうち4割が訪れるとも言われる。その交差点のランドマークとも言え、多くの外国人が構えるカメラに必ず写り込んでいるであろうQFRONTが開業したのは、1999年、私が高校に入学した年の冬である。

 SHIBUYA TSUTAYAとスターバックスでおなじみの同ビルの前で、かつて存在したギャルサークル「キディキャット」のメンバーでもあり、「東京ストリートニュース!」や「エゴシステム」などの雑誌で読者モデル経験もあるTと待ち合わせた。

 Tは高校入学と同時に一気にギャルの道を極め、パラパラビデオの撮影やセンター街周辺で開く週に2回のミーティング、神山町のクラブで不定期に開催していたイベントのチケットさばきなどに青春を捧げたが、中学時代はバドミントン部でキャプテンを務めるスポーツ少女だった。スポーツや勉学の傍、おしゃれで音楽好きだった姉の影響で聞いていたのは当時「渋谷系」と呼ばれたピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターなどの楽曲である。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

「私の中の渋谷はやっぱりセンター街とかマルキュー。あとはアトムとかエイジアとかのクラブかな。渋谷系の人たちにとっての渋谷はちょっとエリアが違ったでしょ。タワレコ(タワーレコード)があって渋谷公会堂があって。それが、ちょうどうちらが高校入ってこのTSUTAYAができて、一気に裾野が広がった感じ。タワレコってギャルのイメージがないじゃん。TSUTAYAはあるよ。お姉ちゃんが渋谷系大好きだった私から見ると、渋谷って当時から切り絵みたいにいろんなカラーの人が行く場所がまばらに広がってるって思ってた。そう思ってるのってギャルの中では私くらいだったけど(笑)。まさに渋谷系の音楽みたいに、いろんな文化を切り貼りして作られている感じだった」

 そう語るTは、濃い色のデニムにショート丈のダウン、下にはブラウンのニットを着ていて、おそらく多くの人がパッと見るだけでは、ごくごく普通の2児の母、普通の主婦だ。24歳で結婚し、長男はすでに小学校に入学した。ただ、時々ニットから覗くインナーがAZULだったり、財布がシャネルのカンボンラインだったり、ちょっとしたところにギャル出身の残り香があるのを、私は簡単に見つけられる。

©iStock.com

この辺りにさ、ヴィトンの偽物とか売ってる行商いたよね

 彼女と初めてあった頃、私がよく着ていたのはロキシーのTシャツ、彼女はLOVE GIRLS MARKETなどの民族系ギャルブランドを好んでいた。シブセンマック(センター街のマクドナルド)やHMV前の階段で待ち合わせて、彼女のサークルのミーティングやイベントが始まる前に、109で買い物をしたり、大戸屋でご飯を食べたり、プリクラのメッカで写真シールを撮ったりした。イベントやパーティーの後にまた落ち合って、そのまま朝まで外で時間を潰したこともある。

 TSUTAYA1階に陳列された、もうほとんど私たちにはわからなくなってしまった人気アーティストの新しいCDの隙間をぐるぐると歩いたあと、私たちは再び外へ出て、109の方に歩き出した。

「この辺りにさ、ヴィトンの偽物とか売ってる行商いたよね。あとセンター街の入り口に合法ドラッグの露店あったり、シブセンマックのあたりまで行くと、チーマーの若い人がまだいたり、治安悪かったね。今は綺麗。女子高生も、なんか今は悪いことするのって秋葉原とか池袋とかそっち方面のイメージ。昔は援助交際でもブルセラでも、渋谷で稼いで渋谷で使ってた気がするよ」

 治安が悪かった、と語るTの言葉は生々しい。彼女の左側の前歯は実はブリッジで取り付けてある人工歯で、では本物の歯はどうしたか、というとセンター街の奥にあった居酒屋で、男性グループと揉めた時に階段から突き落とされて折れてしまった。「歯抜け」になった彼女の顔は翌日にはぷっくり腫れていて、そんなことも私たちは大声で笑って楽しんだ。清潔さや安全さを、少なくとも私たちは求めていなかった。

渋谷の「稼ぐ場所」だった雑居ビルは忘れられない

 Tと私の、もう一つ忘れられない思い出の場所は、渋谷センター街をまっすぐ歩いて右に抜け、現在では巨大なブックオフがあるあたりからさらに先に進んだところにある。ラーメン屋の脇のエレベーターから入る雑居ビルの4階。そこは私たちにとって、渋谷の「稼ぐ場所」、2002年に閉店したブルセラショップだった。私たちはかつてそこに登録し、暇な放課後はその店で客を待ちながらセガサターンやプレイステーションのゲームに没頭した。日が暮れると、その日に儲けた1万円札を何枚か持って、今度は「使う」方の現場である109やTSUTAYAに移動していた。

©iStock.com

 渋谷はセゾン文化と呼ばれたかつての西武セゾングループ系の事業や、109やBunkamuraなどの東急電鉄系の開発が切り絵のようにひしめく土地でもある。そして映画や音楽といった渋谷の持つ一つの大きな優位性を大きく担ったセゾン系事業に対し、ギャルブームを牽引し、ギャルの聖地として一気に褐色のギャルたちを呼び込んだのは、東急グループの功績と言える。

 次々に大型施設が建て替えの時期を迎えている中、1979年に開業した109は現在も異色の存在感を放って1月1日以外は休みなく営業している。その行列がニュースで取り上げられることも多く、昨年11月も安室奈美恵のオリジナルショップが期間限定で8階にオープンし、限定ガチャガチャを引こうとする客が5つ下の階までの行列を作った。5000個限定のガチャガチャは発売日の午後3時にはすでに完売していた。

「今だと一番下のプラザ(雑貨ショップ)のある階と、一番上のイベントがある階だけはちょっと特殊で、その他のフロアってそんなに違いがないから、単に『これ109で買った服』っていう感じだろうけど、覚えてる? 私らが中学生の頃、ギャル誌の特集って109じゃなくて109のB1の特集だったよね。地下1階で買ったものの価値が一番高かったの」

後編に続く)

90年代の女子高生は「援助交際でもブルセラでも、渋谷で稼いで渋谷で使ってた」

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー