なかなか軽い……といったら失礼だが、これは時代を考えてみれば充分にありうる話である。濵田さんが20代前半くらいだったであろうその当時といえば、まさに高度経済成長期まっただなか。可能性に満ちていただけに、“儲かる仕事”への転職は不思議なことではなかったのだろう。

厨房内の様子

「(料理のことは)全然知らんからな。ほんで天王寺のほうの店へ行っとってんけど、小さいとこやったから全然料理覚えられへんな思うて。ほんで、神戸で食堂やってた親戚の親父さんから『一回来てみ』と紹介されて、それで神戸の中華料理屋にずっと。やっぱり宴会場に憧れてたし、かっこええしな、若いときやから。それで、そこで習うかなと思って、4~500人入る大きな宴会場へ行った。経営者もコックさんもみな中国人ばっかりや。そこで中華の修業をした」

 先輩方から、とてもかわいがってもらえたそうだ。それに加えて本場の味を学ぶことができたのだから、結果的に転職は正しい判断だったのだろう。1970年の大阪万博のころがいちばん忙しかったそうだが、かくしてその店で修業を積んだのちに(現在とは別の場所で)独立して小さな店を開き、10年間続けた。

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かつては製版会社の従業員から出前も多かったが…

 では、ここに移った理由は?

「いや、ここのがええかな思うて。ごっつう学生多かったしな。その学生はもう定年退職になるぐらいで、いまでも来てくれるで」

 ところで先述のとおり、このあたりは印刷関係の会社が多いように感じたのだが。

炒飯の味も絶妙だ

「そうそう。製版いう仕事があってんけど、納期があるからな、残業が多かった。残業で晩飯の出前がごっつかったんや。いまのこの店の1日の売り上げより、出前だけで倍ぐらいあった。でも、その製版もパソコンができてからもうあかんなった。パソコンは安いし、きれいし。だからもうそういう職業がなくなって、この辺の店は夜はあかん。昔はよかってんけど、それももうなくなったから、うちももうええことない」