私事で恐縮だが、一般企業の人事部にいたことがある。毎年の採用計画は重要な仕事の一つだった。採用を絞れば社内の人口ピラミッドはいびつになり、将来的には健全な成長を妨げることになる。そういう主旨で採用の維持を訴えた私に上司は言った。会社が明日倒産したら将来なんてどうでもよくなる。それでも君は、この人数を採れと言うのかね、と。背に腹は替えられぬ、との理屈である。
しかし、ご立派な大義名分が人を殺すこともある。相場英雄『ガラパゴス』はそうした残酷な現実を描いた作品だ。二〇〇〇年代に入ってから日本企業は国際市場での競争力を失い、身を切られるような存続のための努力を強いられるようになった。当然、しわ寄せは弱者に向けられたのである。企業の都合で切り捨てられた人々が本書には多数登場する。出口の見えない無間地獄が現出するのだ。
主役を務めるのは、食品業界の闇を暴いて話題になった『震える牛』にも登場した田川信一警部補である。田川はある日、二年前に起きた練炭自殺死が、実は偽装された毒殺事件だったことに気づく。身元不明とされていたその素性も、沖縄出身の仲野定文であると知れた。仲野は高専を優秀な成績で卒業したが、なぜか就職で失敗し、派遣労働者として糊口を凌ぐ暮らしを送っていた。当時の状況を調べ、転々と移動していた勤務先を調べるうちに田川は、派遣業界の裏側を知っていくことになる。
迫力満点のスリラーである。登場人物は多いが、物語は決して停滞しない。自動車業界で頻繁に持ち上がるリコール問題の裏側にあるものや貧困層の生活実態など、多数の話題が飛び石のように置かれ、それをたどるだけでも十分に読み応えがある。よく制御された形で情報が開陳されるので、好奇心が満足させられるのだ。読み進めているうちに、この国が直面している事態が浮かび上がってもくる。
題名の『ガラパゴス』とは、国産メーカーが進化の袋小路に入りこみ、国際競争力を失っていることを揶揄気味に表す言葉だ。だが、どのメーカーも絶滅危惧種を作ろうとしたわけではない。「よかれと思い」「お客様を第一に」した結果が、なぜか孤島を作り出してしまったのだ。そうした状況を打破する解はさすがに書かれていないが、正視するためのきっかけを本書は読者に与えてくれる。「会社のため我が身を犠牲に」と一度でも思ったことのある方にはほろ苦い味もするだろう。苦悩する登場人物たちは自身の似姿でもあるからだ。かつて会社に殺されかけたことのある自分の。
あいばひでお/1967年新潟県生まれ。2005年『デフォルト(債務不履行)』で第2回ダイヤモンド経済小説大賞を受賞しデビュー。『震える牛』(12年)が28万部を超えるベストセラーに。ほかの著書に『血の轍』『共震』『リバース』『御用船帰還せず』などがある。
すぎえまつこい/1968年東京都生まれ。書評家。著書に『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』など。