冒険バラエティ番組『陸海空 世界征服するなんて』(テレビ朝日)で“ナスD”とともに過酷なアマゾン・ロケを敢行してきたU字工事が、6月27日に「ビギン・ザ・ギンザ」で歌手デビューを果たす。マグネシウム工場勤務という下積み時代を過ごした町田を離れ、今では杉並と世田谷に居を構えるというお二人が、いかにしてキャリアアップしたかを聞いた。(前編が公開中)

(左から)福田薫さん、益子卓郎さん

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浅草キッドから栃木弁を推される

――上京してからのオーディションはどうだったんですか。

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益子 ずっと落っこちてばかりでねえ。その時に、俺が「浅草お兄さん会」って浅草キッドさんが主催してるライブの告知を見っけたんです。

福田 笑いの雑誌「AJYAPA!」の隅っこにあったんだよね。三行広告みたいにネタ挑戦の募集が。

益子 それで中野の「なかのZERO視聴覚ホール」まで駈けつけたら、キッドさんが直々にネタを見てくれたんですよ。マキタスポーツさんや米粒写経さん、プチ鹿島さんがいて緊張しましたよ。俺ら完全にチンピラ以下で何者でもなかったので。とにかくネタを演ったのだけは覚えてるなあ。

 

福田 栃木弁を出してくといいよってキッドさんにアドバイスを頂いて、前座のコーナーに出してもらったんですよ。この助言がなかったら今の僕らはないですね。

――その頃は訛りをウリにしてはいなかったんですか。

益子 そうです、標準語で喋ってたつもりなんですけど、ナチュラルに訛ってました(笑)。だから中野で浅草キッドさんに出逢った事はU字工事の一大転機だったと思います。

町田市のマグネシウム工場で働いた下積み時代

――上京してきた時は町田住まいですよね。

益子 まず大学に近かったんですよ。町田でネタを作って、練習して、バイトもしてね。町田でなが~く暮らしました。

福田 10年だよね。住みよかったから。

――マグネシウム工場でお二人とも働いて、面接官までやったとか。

益子 上京して半年はコンビニで働いてたんですけど、大学の単位も取らなくちゃいけないし、改めて探したんですよ。そうしたら広告チラシで町工場の募集を見っけて。近所だったし、自転車で覗きに行ったら傾きかけの感じで。そうしたら中から「来て来て!」って誘い込まれちゃって。

福田 キャッチバーみたいに言うなよ(笑)。

 

益子 面接も1分くらいで「いますぐ働けるかな。2時間くらい」って。俺も「はい!」って答えたんです。夕方4時くれえだったけど、終わったのが夜中の0時だったなァ。思えばブラック企業だよ。

福田 悪く言うなって、恩義山盛りだろうが!

益子 機械のボタンを押すような仕事から始めて、毎日のように通うようになりましたねえ。

福田 それから1ヶ月後に僕も、自分が働いてたコンビニが潰れちゃったんで面接に行ったんです。益子に「お前ェんとこ行っていい?」って頼んで。面接も「益子ちゃんの友達ならいいよ!」って即決でした。

益子 卒業後もすごく良くしてくれて、急なオーディションでも休ませてくれたんです。

福田 休んじゃうと工場のラインが回らなくなるから迷惑かけました。

益子 金曜の夜になったら工場の仲間とスーパーに買い出しに行って、ホットプレートで肉焼いたりしてねえ。

福田 ソフトボールチーム作って町田市の大会にも出ましたよ。

――マジメに仕事してたんですね。

益子 若手芸人って結構、借金してる人が多くて。首回んなくなって辞めちゃったりしてるのを見てたんです。福田とそれは嫌だなって話してたんですよ。だからちゃんと働いたな。結局、10年町田で過ごしましたからね。

福田 仕事帰りにスナック行って、先輩のトオルさんとね。

益子 酒好きの独身のおじさんなんですけどね。一緒にフランク永井の「おまえに」を歌ってたねえ。今度の歌をフランク永井風にって高田(文夫)先生に頼まれた時、ピンと来たもんね。町田のミュージックショップ鈴木(鈴木楽器店)で冠二郎さんのCD買って、オマケのキーホルダー貰ったの、すげえ嬉しかったよ。