文壇と政界に、巨大な足跡を残した石原慎太郎(1932~2022)。その歯に衣着せぬ物言いは、常に世間の耳目を集めた。しかし、いくら燃え盛った太陽も、いつかは沈む。その最期を看取った、画家で四男の延啓(のぶひろ)氏が明かす、父・慎太郎が遺した言葉とは。(全3回の1回目/#2に続く)

石原慎太郎氏 ©︎文藝春秋

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「オレは女々しく死んでいく」

「最後まで足掻いて、オレは思いっきり女々しく死んでいくんだ」

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 昨年12月半ば頃、病床の父はいつもより強い調子で言いました。

 その日、親友の高橋宏さん(日本郵船元副社長、2021年6月逝去)の思い出話をしていたときのことです。高橋さんは幕末の剣豪で禅に通じた山岡鉄舟が大好きでした。そこで私は、こういう人もいるんだねえ、と山岡の最期について父に話を振ってみました。

 胃がんを患った山岡は自分の死期を正確に予期し、最期の日に弟子や家族を呼んで座敷の真ん中で座禅を組んだまま絶命したといいます。

 ところが、父にこの話は響かなかったようで、乗ってはきません。そして「オレは女々しく死んでいく」と。正直な気持ちであったと思います。いつでも本心を語りつつ、格好つけているのかいないのか。今振り返れば、最後の最後まで親父は石原慎太郎でした。

 遺稿「死への道程」は、昨年10月に膵臓がんが再発し、医師から余命3カ月を宣告されたときの心情を正直に綴ったものです。宣告後にどう声をかけたらいいか分からずに、思わず「正岡子規の『病牀六尺』ではないが、今の心境を描写していったら?」というと「オレは日記を書く」と父は答えてくれました。しかし、実際に書いたのはこの原稿です。

 父は原稿をすぐにでも「文藝春秋」に掲載してもらうことを望みましたが、病気が公になれば、闘病生活を静かに送ることができなくなるかもしれない。家族の判断で私たちの手元にとどめることにいたしました。あの父のことです。もしそのことを知ったならば烈火のごとく怒ったかもしれません。

「太陽の季節」とともに

 告知直後で体力的にまだ元気であった頃に書かれたこの文章は、身内からするとまだ格好つけているのではないかと感じられるところもあります。それでも、やはり父らしく死へ向かっていく父らしい文章だと思います。今回、父が世に出るきっかけとなった「太陽の季節」と同時に掲載していただく(同号の「文藝春秋」に掲載)ことは、生と死をテーマに作品を書いてきた父にとって本当にありがたい場になったと思います。

 2年前、奇跡的に早期の膵臓がんが見つかり、重粒子線治療を受けられたのは幸運でした。ところが昨秋、再発が分かったときには、すでにお腹のあちこちに癌が転移する腹膜播種が起きていました。父は星のように散らばる癌のレントゲン写真を見て戦慄した、と申しておりました。高齢で持病も抱えていたので、もう抗がん剤治療はせずに少しでも痛みや辛さを和らげるための緩和ケアを選択しました。以来、自宅と介護施設を行き来する、最後の闘病生活がはじまったのです。