火葬場で父と別れたあとでも、驚かされることがありました。焼き上がったお骨を見ると、よほど骨がしっかりしていたのか、頭蓋骨や太い骨がかなり焼け残り、灰になってしまうことの多い歯まで確認することができました。改めて頑強であった父の肉体を強く感じました。
「オレの人生で一番の仕事って何だったのだろう?」
父にとって文章を書くことは生きがいでした。自宅でお招きしたお客様と一緒に食事をしている途中でも何か閃きがあると「じゃあ」と切り上げて2階の書斎に行ってしまうことさえありました。
執筆の相棒はワープロ「ルポ」。ひらがな入力ができるという理由で同じモデルを30年以上使い続けていました。日本ではもう5人くらいしか使っている人はいないという話で、東芝には父の為の専門の担当者がいると聞いたことがあります。
父は今ここが第一の人。その時々に書いたものが父にとっての最高傑作でした。まだ実家で一緒に暮らしていた頃、明け方近くにトイレに立つと「オレは今、これまでで最高の散文詩集を書きあげたぞ」と高揚している父に出くわしたこともあります。流石に晩年になって現行の作品が最高傑作かを問うと「ん? 悪くない作品だよ」と言うにとどめておりましたが。
昨年12月も半ばを過ぎると徐々に病気も進行し、父は「手探りでのたうち回っている感じがする」と言うようになりました。そして「ノスタルジーしか感じない。只々懐かしい」と昔の思い出ばかりを書いている父に「今、まさしく死に行く人間がみている眺めを描写して書いてみない? 親父の小説の『遭難者』や『透きとおった時間』の中で死んでいく主人公よりも時間があるのだから書いてよ」と提案してみました。
父からは「おお、そうだな」と気のない返事が返ってきました。もう、そこまでの体力はなかったのでしょう。残されたフロッピーディスクの中には、昔の思い出を綴った文章以外見当たりませんでした。
亡くなるひと月ほど前だったでしょうか、ある時病床の父からふと、
「オレの人生で一番の仕事って何だったのだろう?」
と問われました。私が答えを模索していると、
「創造的な世界にひとつのやり方を投げかけることはできたよな」
独り言のようにポツリと言いました。父は最後までアーティストでした。もっと色々と聞きたかった、話したかった。それがもう叶わないのはとても寂しく残念でなりません。
◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 リーダー篇』に掲載されています。



