住まいは質素な賃貸の部屋
本来、証券外務員は毎朝8時から8時半に出社し、顧客に電話を入れて注文を取り、9時からの前場に備える。昼の休憩を挟んで後場でのやり取りを経て、3時に大引けを迎えると、再び顧客と連絡をとるという段取りで一日の仕事をこなしていく。しかし、加藤の場合は早朝から浅草観音、待乳山聖天、上野の摩利支天徳大寺にお参りし、時には川崎大師にも足を延ばして、朝10時や遅い時には午後1時に会社に顔を出す。1時間ほどで会社を後にして客との打ち合わせに出掛け、一人につき40分から1時間の面談で数百億円の商いを進めていった。
土日は、誠備会員の結束と敬愛する日本船舶振興会会長・笹川良一の長寿祈願のためと称して四国八十八カ所の各札所を巡礼。100万円ずつを寄付して回った。台湾に旅行に行けば、高級ホテルで、誰彼構わず1万円をチップとして渡す。当時現地では高額紙幣の1万円をバラ撒く男として一部で有名になっていたという。
しかし、普段の暮らしぶりは至って質素だった。JR大塚駅から都電荒川線に沿って春日通り方面に5分も歩けば、レトロ感が漂う「加藤マンション」なる6階建ての賃貸物件がある。1977年に新築されたこの建物の5階の2DKの部屋が当時の加藤の自宅だった。建物名に“加藤”が冠してあるが、加藤の所有物件ではない。加藤は、「家を持つと守りに入ってしまう」が口癖で、以前から家を買うという発想がなかったと妻の幸子は語る。
「長者番付に出ているのに質素な賃貸の部屋に住んでいるのが当時は格好いいと思っていたんでしょう。ある時、衆議院議員の中川一郎さんの秘書だった鈴木宗男さんが鮭を届けに来て下さったことがありました。名前を見て豪華な持ち物件を想像していたのだと思いますが、ドアを開けると、マンションとは名ばかりのアパートの狭い部屋だったので驚いていました」
1978年12月、加藤には待望の長男、恭が誕生している。加藤は自身の被爆体験が、子供に何らかの影響を及ぼすのではないかという不安を抱え、結婚当初は「子供は作らない」と幸子に宣言していた。その後は信仰を深めたことで気持ちが軟化したが、一度幸子が流産を経験し、「やはり被爆が原因かもしれない」と諦めかけた矢先の朗報だった。

