加藤銘柄一色と化した兜町

 その後も加藤の勢いは止まらなかった。黒川木徳証券は、1980年(昭和55年)4月に加藤のための部署、第三営業部を新設した。窓口に押し掛けてくる顧客は、加藤が手掛ける銘柄を何とか聞き出そうと必死だった。さらに、黒川木徳証券から買い注文が入ると、顧客は加藤の御利益にあずかろうと一斉に群がった。黒川木徳の屋号にちなんだマルキ銘柄には二種類あり、加藤本人が関わっている買いは「ホンマルキ」、加藤を装った偽の買いは「ハナマルキ」と呼ばれ、その一挙手一投足に注目が集まり、兜町はまさに加藤一色の様相を呈していた。仕手筋に顧客を奪われた業界のガリバー、野村證券には顧客奪還に向けた加藤対策のための部署まで設けられたという。

 前述の加藤を被告とする民事訴訟に先立って行なわれた別の民事訴訟で、証人出廷した加藤が当時の状況を克明に語っている裁判記録がある。

 1987年5月12日の口頭弁論から抜粋する。

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〈当時、会社からは、小口の(顧客)がどんどん増えてくることに対しては、遠慮がちに迷惑がっているような雰囲気はありました。要するに一人で一口一〇〇億円とか、そういう大口は歓迎だけれども、五〇〇万円、一〇〇〇万円というのが何千人というのは、非常に煩雑なので、その辺はどうも言いにくそうな感じでした。私自身も、大きい所で動けば、もっと大きい注文が取れるので、小さい客を数多くやるよりも、少人数でもまとまった大きな客を取ってもらうほうがありがたいような様子は感じていました〉

 加藤側の並木弁護士が、「信用取引の額を各外務員が取合いになることもあると思いますが、あなたに特別待遇してくれたとか、そういうことはありましたか」と質問すると、加藤はこう答えている。

〈特別待遇しようにも、木徳証券全体で、一〇〇億円の枠しかない。そのうち大阪と東京で、五〇億円ずつ使うわけです。その五〇億円も、東京では営業一部と営業二部で分けるわけで、グロスで営業二部に二十五億円です。それを二〇~三〇人の外務員が分けるわけですから、私の方にある程度優先してくれたとしても、上限五億円ぐらいが精一杯である。五億円というのは、私にとっては非常に少ない信用枠であるわけです。誠備投資顧問室の人からは、もっと信用取引の枠を広げてくれないかという依頼がしょっちゅうありました。しかし、それは物理的に不可能だったわけです〉

 黒川木徳証券の手数料収入は、加藤が入った1973年にはわずか約820万円に過ぎなかったが、第三営業部を新設した1980年には約21億円に跳ね上がっていた。もはや加藤の存在は、黒川木徳証券の社運を左右するほどに肥大化していた。加藤は、都内のホテルなどで定期的に誠備の廿日会のセミナーを開催し、講師として登壇した。そこでは、四大証券が一般投資家に推奨銘柄を高値摑みさせ、過大な手数料収入で暴利を貪っていると批判。月に一度は廿日会の会員と伊勢神宮に参拝し、結束力で相場を牽引した。さながら加藤そのものが、新興宗教の教祖のようでもあった。