普通の家庭で育った少年が、なぜ殺人犯になったのか
まず父親のエディは、ジェイミーに男らしいスポーツをさせようとしたが、ジェイミーはその期待には応えられなかった。またエディが短気であること、幼少時代には体罰を受けていたことなども断片的に明かされる。
しかし、だからと言ってエディは女性に手をあげるような人間ではないし、愛情深い母親には何ら問題があるとは思えず、姉もまた、何があってもジェイミーの味方であり続けようとする。完璧な家族(というものが存在するとは思わないが)ではないにせよ、ジェイミーは愛されて育った子供であり、比較的ありがちな家庭と言えるだろう。
それでは学校はどうだったのか。担当刑事は同じ学校に通う息子から、ジェイミーと被害者ケイティのSNSのやりとりをめぐって問題があったことを聞かされる。しかし、絵文字に込められた意味などを早口で訴える息子の話が、刑事にはピンとこない。SNSと無縁だった父親世代と、その子供たちの世代とでは、今のSNSを中心とする子供たちのコミュニケーションのあり方や関係性は、理解できないというのが本音だろう。教師たちも似たようなものかもしれず、そもそも現実的にSNSの管理など無理な話という気もする。
しかし、ここで重要なのは単純ないじめの構図ではなく、徐々に明かされていくジェイミーの言動が、「13歳の少年にふさわしいものではない」という点から読み取れるSNSやネット上の情報との関連性にある。
学校で俗に言う“非モテ”を意味するインセルというレッテルを貼られていたジェイミーは、SNSを介してネット上のさまざまなコンテンツや思想などにもアクセスしていた。そのこと自体は他の子供たちも大人も似たような体験をしているのだと思うが、精神状態が不安定になったり、感情が過敏になっている思春期の子供が受け取るのと、既に成人した大人が受け取るのとでは、同じ情報でも意味や重さが違ってくることは容易に想像ができるだろう。
