曹操は明晰な知略で魏国を建国したが…

 まず想ったことは、曹操(そうそう)が建てた国である魏には、人材が豊かである、ということである。すぐれた人物を多く得た者が、最終的には勝つ、と曹操が考えていたことは、容易に想像がつく。この曹操の人材蒐めがなかったら、後漢末の董卓(とうたく)の専横からはじまる戦乱は、ずいぶん味気無いものになっていたであろう。曹操の時代からさほど離れないで正史『三国志』を書いた陳寿(ちんじゅ)は、曹操をこう評している。

「漢末に、天下は大いに乱れ、英雄豪傑が並び起った。そういうときに袁紹(えんしょう)は四州を得て、天下を虎視し、その盛強さにかなうものはいなかった。魏の太祖である曹操は、籌(はかりごと)をめぐらせ、謀計を展開して、天下を鞭撻した。戦国時代の名臣である申不害(しんふがい)や商鞅(しようおう)の法治の方法を採り、韓信(かんしん)、白起(はくき)といった名将の奇策を借り、才能のある者を官に就け、その器量の大小によって働かせた。感情をあらわにせず、計算にまかせ、旧悪を念わずに用いた。ついに天子の政治を総覧し、洪業を成し遂げられたのは、ただその明晰な智略がもっともすぐれていたからである。非常の人、超世の傑というべきであろう」

宮城谷昌光『三国志名臣列伝 魏篇』

 陳寿は蜀の人として生まれ、のちに晋の人となったが、魏の創業者への評は、ずいぶん的確であるようにおもわれる。その評にあるように、曹操によって拾われたり、迎えられたりした才能は多い。ただし小説として名臣を書いてゆくうちに、曹操のくせに気づいた。

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「蜀篇」の関羽(かんう)のところで書いたが、降伏した武官と文官とでは、あつかいがちがうということである。武官で要職が与えられたのは、張遼(ちょうりょう)と関羽のみで、降伏した敵将を信用しないというのが、曹操の心情的なくせであろう。