劉備に仕えた関羽と張飛、趙雲、諸葛亮の違い

 しかしながら、その点、劉備に早くから仕えた者たちは、忠臣であっても名臣ではないかもしれない。関羽と張飛(ちょうひ)が劉備のために天下平定の道すじを示したことはなかったろう。だが、趙雲(ちょううん)に関しては、多少、事情がちがう。かれの出身地は常山国で、冀州に属しているので、袁紹の勢力圏にはいる。それを承知で、趙雲は袁紹に従わず、幽州から南下した公孫瓚(こうそんさん)に属き、ついで劉備に付いた。

 正義を証明することを、証義、という。趙雲は劉備を証義の人とみたのではないか。正義をつらぬいてゆく者は、いつか、かならず強大な力をもつ。趙雲がみた劉備は、曹操に敗れて袁紹のもとに逃げこんだばかりで、徒手空拳であった。つまり無にちかく、その無がどのように有に転ずるのか、自分の目でみたい、というのが趙雲の心情であったろう。

宮城谷昌光『三国志名臣列伝 蜀篇』

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 このあと、劉備は趙雲とともに南下して、劉表(りゅうひょう)に迎えられ、めずらしく落ち着いた日々のなかで、諸葛亮(しょかつりょう)を発見する。じつは有能な人物は劉表の支配地である南陽郡と南郡に多くいて、かれらは劉表をみかぎったかたちで劉備に従属して蜀までゆくことになる。無が有に転ずるとは、そういうことなのである。