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あだ名は「国鉄の天皇」 退団でチームの「身売り騒動」も
国鉄は、その名の通り日本国有鉄道が球団を保有し1950年のセ・パ分立時にセ・リーグに加入したものだ。金田は創設1年目に入団したが、金田が移籍する1964年まで一度も優勝したことはない。そんな弱小チームで、金田はアンタッチャブルな400勝の大部分を稼ぎ出したのだ。
金田の所属球団別の投手記録は上の表の通り。金田が在籍した期間の国鉄は833勝1070敗(勝率.438)だから、金田はひとりでチーム勝利数の約4割を稼いでいたのだ。金田は弱い国鉄にあって孤軍奮闘していたのは間違いない。
金田は後年「わしが最初から巨人に入っていたら500勝はしておったろう」と言った。国鉄の勝率.438に対し、同じ期間の巨人の勝率は.613(1173勝739敗)だから、あながちほら話とは言えない。
まさに金田は国鉄の大黒柱だった。国鉄は金田が退団した1964年オフに、当時から一部の株式を保有していた産経新聞社に持ち株全てを売却したが、これは当時の国鉄総裁が「金田がいない球団を持っていても仕方がない」と思ったからだと言う。一方の金田は「国鉄が株を売り渡すと言うから移籍したんや」と言っている。真偽は不明だが、ともかく金田あっての国鉄だったのは間違いない。国鉄時代にメディアが言った「金田天皇」という言葉は決して大げさではない。
