山極 全くその通りで、所有を許さない社会なんですね。ピグミーの人たちがさらに興味深いのは、自分の槍や弓を「自分では使わず、友達に貸す」。貸すことによって友達が獲ってきた獲物をみんなで分かち合う場をつくるんです。
自分の所有物で自らの労働で得た成果は、どうしたって人は独占したくなるもの。でもそれを避けて、皆で分けるためにどうしたらいいかを考え抜いた結果の慣習なんだと思います。
しかもそのとき、獲物は特定の誰かに手渡さず、ただ食べ物を置く。誰かに与えるという行為だと〈与える者・与えられる者〉という優劣が生じてしまうから、「所有から所有へ」という現象が起こるのを避けているんです。
内田 なるほど。贈与や交換という言葉ではたしかに説明ができませんね。「みんなで分ける」ための知恵ということなんでしょう。獲物を獲ってきた人は、それを自分の手柄にしない。集団内で力の差や嫉妬心が生まれるのを避ける気遣いが興味深いですね。こうやって考えてみると、僕らが「人間性」だと思っているものはけっこう日付の新しいものなのかも知れませんね。
「サル化」する社会の問題点
山極 そう思います。ところで内田さんの『サル化する世界』を面白く読ませてもらいましたが、「そうだよな」と思えるところが沢山ありました。と同時に、サルの側から見たちがう視点も今日は語りたくて。
内田 あの本で扱ったトピックの一つは、時間意識の問題でした。僕があそこで「サル化」と呼んだのは「朝三暮四」の逸話から来ている時間意識の縮減のことです。朝四粒で、夕方三粒の配分に喜ぶサルは、朝の自分と夕方の自分の間に自己同一性を維持できない。ということは、自己同一性がある時間を維持できる能力というのは、割と最近人類が獲得したものだということになります。だから、それほど深く身に浸み込んでいるわけではない。
現代人の時間意識が縮減して「今さえよければ、自分さえよければそれでいい」となっているのは、「朝三暮四」のサルに退化しているのではないかと問題提起しました。サルの側からの視点もぜひ(笑)。
山極 サル化って「効率化」だと思うんですよ。実はサルの行動を見ていると、彼らは本当に時間を効率的に使います。我々なら何かトラブルがあれば、その原因を確かめて、双方の主張を聞きながら仲裁するでしょう。でも、サルは仲裁なんかせずに、「勝ち負けを決める」だけ。例えば、食物を巡って2頭のサルが争っていれば周囲は強そうな奴に味方するので、すぐ弱い者が引き下がってケンカになりません。
しかも、負かされた側は敵意を抱くものですが、両者が次に再び出会ったとき、勝った側は何事もなかったような顔をする。前のことを蒸し返したりせず、なかったことにする。すると相手も気勢を削がれて争わない。これが、効率的にトラブルを回避する“サル知恵”(笑)。これが「サル化する社会」の僕のイメージですね。
内田 なるほどね。効率を求めていくと、権力差をあらわに可視化しておいて、「強いものが総取りする」のが一番簡単で、しかもその事実を忘れたふりをするのがサル、というわけですね。
トラブルが起きたときの仲裁できる力というのは、共同体をつくる上で非常に大切なものだと思いますが、和解や仲裁はけっこう技術が要る。両方の言い分を聞いて、どっちの言い分にもそれぞれ一理ある、ならば中とってこの辺でどうです、と落とし所を見つける技術は、かなり高度な知性を要求するものですが、これが昨今とても衰えている気がします。
山極 なるほど。

