ゴリラの遊び方と合気道の共通点
山極 それを聞いて思い出したのが、ゴリラの遊び方です。たとえば、太い大木の周りを2頭の子どもがグルグル回って遊ぶとき、一方が速度を変えると、追いかけてる子が追いかけられる役割になります。ターンテイキングといって、役割を交代しながら、流れを自在に調節して遊んでいるんです。そういうやり取りは、相手の身体と同調し、調整しないと成立しません。そういう遊びのなかで、身体の共鳴ははぐくまれてきたもののようにも思いました。
内田 合気道の場合はまさにターンテイキングですね。入門して何十年という古参の門人も、初心者も、同じ技を稽古するんですが、相手の体力や練度を見ながら、互いに一番楽しく、一番高いパフォーマンスが発揮できるように役割を交代しながら身体の使い方を工夫する。技をかける人と、かけられる人を、「刀と砥石」に喩えることがあります。砥石が粗すぎたら刃は欠けてしまうし、砥石がつるつるで摩擦がなければ、それでも刀は研げない。適度な抵抗があってはじめて刀は研げる。それと同じように、相手の練度に合わせた技の使い方が必要なんです。
山極 遊びで役割交代が起きるには、「ハンディキャッピング」といって、体格のいいほうの子が、わざと動きを遅くしたりして、身体の小さいほうに合わせる必要があります。つまり、遊びにおいては小さい方がイニシアティブを握っているんですね。強いほうはハンディを付けて、遊びという対等の世界を作ってきた。
そもそも遊びは、はじめからルールがあるわけじゃない。ルールは、その場で立ち上がってくるもので、それは互いに相手の状態を推し量る中で生まれてくるものなんですよね。
ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で述べているように、遊びが人間の文明史的なルーツと考えてみたときに、こと現代社会でハンディを付けて相手に合わす「譲る心」を取り戻すことがとても大切だと僕は思っています。なんでも自分自分で権利主張をするのではなく、相手の意見を聞きながら合意をはかっていくような力。これが良い老い方だと思うし、内田さんのいう成熟にも近いように思います。
自分のパイを確保することに必死な社会
内田 そうですね。いまはほんとうにいい歳して幼児みたいな人が増えましたからね。
山極 自分のパイを確保することに一生懸命に精を出している人が多い。自分が手にしたものは手放さないぞと言わんばかりに。僕はね、つくづく戦後日本は大きく間違えたと思うんですよ。右肩上がりに経済成長し続けられると思って地球環境を破壊し、数少ない所有物を争ってパイを奪い合って、こんな悲惨な社会になってしまった。

