内田 狂言に三番叟というのがあります。たぶん今に伝わる中で最も太古的な舞の一つだと思うんですけれども、この動きがまるでサルなんです。延々と同じリズムを繰り返して、鈴を鳴らしながら、時々キーッキーッっと猿のような声を発する。見ているうちに、タイムスリップして、古代の呪術的空間に誘われてしまうような舞なんです。
山極 ここで面白いのがサルやゴリラやチンパンジーの声の出し方で、人間と一番異なるのが、彼らは呼気と吸気を音にできるんです。でも、人間は呼気しか音にならない。サルなどは、ハーモニカのように呼気と吸気の両方で音を出せるんです。
人間は二足歩行を選択して、喉頭が下がって色んな声を出せるようになった代わりに、吸気で声を出そうとすると気管支と食道に一緒に空気が流れてしまって音が出せなくなりました。だから「誤嚥」が起こるんですね。その代わり人間は、生後様々な声を学習できるようになった。サルや類人猿は、生まれつき持っている声しか出せません。
だからサルに「猿真似」はできない。相手の声や動きをまねて、学習できるのが人間に固有の特徴なんです。
身体的共鳴と武道の境地
内田 そうなんですか。僕が稽古している合気道は相手との身体的同期能力を利用する技術なんです。相手の動きにシンクロナイズすると、浅い瞑想状態に入る。そうなると、個体識別できなくなって、二人の身体が一つのものに溶け合って、それが場の「気の流れ」に従って動くようになる。うまく同期ができると、すごく気持ちがいいんです。まるで原始の時代に、人間たちが火のまわりを動きをそろえて群舞しているような陶酔感もあって。
山極 ダンスの共鳴って、人類が最初にもった重要なコミュニケーション法だと思います。その共鳴状態をつくりだすのにリズムが重要なんですね。たとえばチンパンジーはスコールがくると興奮して、集団で「ウーッホ、ウーッホ」と吸気も声にしながらレインダンスをします。あるいはゴリラは、夜になるとあちこちの群れで胸をたたいてドラミングをして、「俺はここにいるぞー」と言わんばかりに心を同調させている。
森でそういう共鳴のただなかにいると実に味わい深いものがありますが、人類においても、そういう集団的共鳴は共同体の人々への共感を高め、自己犠牲を払ってでもここの一員でありたいという帰属意識を高めたように思います。
内田 武道では「我執を去る」ということをうるさく言いますけれど、それは修行において成長の妨げになる最大の要因は「我執」だからなんです。人間関係を対立的にとらえて、目の前にいる相手に技をかけて勝とうとすることが武道では禁忌とされる。
武道家の必読書である沢庵禅師「太阿記」の冒頭には「蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘わらず、一歩も出でず、一歩も退かず、敵我を見ず、我敵を見ず」とあります。「勝負を争ってはならない」という教えから始まるんです。この章句は、僕の理解だと、勝負強弱遅速といったデジタルな二分法を排して、「天地未分陰陽不到の処に徹せよ」、つまり、まだ天地が分かれず、陰陽二極で世界が整序される前の、アナログな状態に戻れと、そう教えているんです。当然、自我もないし、他者もない。対立もない、差異もない。武道家はそういう境地に立たなければならない。
