「置き手紙も姉が書いたものではないようだ」
願出人・相沢福太郎の姉、生方ウメ(48)は1935(昭和10)年ごろ、塩原温泉で旅館の番頭をしていた生方鎌輔(53)と結婚。1953(昭和28)年ごろ、塩原町下塩原に小さな芸者置屋を開業し、2年後に改築してホテル日本閣として旅館業を始めた。改築のための借金やその後の経営不振も重なって鎌輔はノイローゼ気味になり、1年間ほど、宇都宮市内の精神科病院に入院。退院後はウメとともに旅館を経営してきた。
ところが1960年2月初めごろからウメの姿が見えなくなり、相沢は鎌輔から「ウメは2月12日に置手紙をして30万円ばかり持って家出した」と知らされた。しかし、その後「姉からは便りもなく、置き手紙も姉が書いたものではないようだ」という。この旨は塩原警部補派出所長から大田原署長に報告され、家出についての不審点解明の極秘内偵は福渡巡査駐在所巡査に下命された。
カウらの逮捕後の2月24日付栃木は「ナゾを解いた聞き込み」の見出しで大田原署捜査班の内偵の状況を伝えている。それによれば、捜査課長ら4人が連日「塩原通い」をして聞き込み捜査を続行。ウメが「母親の形見」として身に着けていた櫛とかんざしをカウが持っていたことから、ウメがカウらに殺されたことを確信した。カウは「使えるものは使わないともったいない」と、ウメの布団などもそのまま使っていたという。『栃木県警察史 下巻』の記述は続く。
“鎌輔の筆跡で書かれた”置き手紙が決め手に
1960年4月30日、大田原署で県警捜査幹部も出席して「生方ウメ失踪事件」の検討会が開かれた。その結果――。
1.生方ウメが家出した時の置き手紙は、筆跡鑑定の結果、夫生方鎌輔の筆跡である
2.ウメが弟福太郎に宛てて東京から投函した2月23日付消印の手紙は、同様に夫鎌輔の筆跡
3.鎌輔はウメ失踪前後の2月8~12日の行動について、相手によって違った説明をしている
4.ウメが失踪した直後から、鎌輔は小林カウという女を引き入れて同棲生活を送っている
5.鎌輔は、妻が「家出」しているというのに捜索願を出していない
6.小林カウは塩原町で物産店を経営しているが、鎌輔にホテル改築資金を貸しているらしく、以前から鎌輔方へ出入りしていた
―ーなどの点が明らかになった。直接的な決め手を欠いているため、なお鎌輔の精神状態や行動、カウの性向、来歴などを追及する必要があり、継続内偵を進めることになった。