「悪女」とはよく使われる言葉だが、そのニュアンスはさまざまだ。今回取り上げるのは、いまから60年以上前、女性として戦後初めて死刑が執行され、「日本最大の悪女」「毒婦」と呼ばれた人物。ただ、彼女が歩んだ人生を振り返ってみると、はたしてどれだけの悪女・毒婦だったのか……。もしその“称号”通りだとすれば、そうした人格はどのようにしてつくられたのか?
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の1回目/続きを読む)
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1970年6月、女性で戦後初の死刑執行
いまから55年前、前回の大阪万博が開会中だった1970(昭和45)年6月13日付読売新聞(以下、読売)の社会面にベタ(1段見出し)記事が載った。
日本閣事件の小林カウ死刑執行 女性で戦後初
女性死刑囚に対し11日、東京・小菅刑務所で戦後初めて刑が執行された。さる(昭和)35(1960)年、栃木県・塩原温泉のホテル乗っ取りをめぐり、経営者夫妻を殺した「日本閣事件」など、3件の殺人事件の被告として41(1966)年7月14日、最高裁第一小法廷で刑が確定した元・日本閣管理人、小林カウ(61)。戦後、死刑が確定した3人目の女性だが、他の2人は恩赦と死亡で執行されていない*。なお、共犯の雑役夫、大貫光吉(46)も処刑された。
*実際には1人目が恩赦後に病死、2人目はカウの後(1970年9月)に執行された
当時の新聞記事は「容疑者」「死刑囚」などの呼称を付けず、呼び捨てだった。小林カウの肩書は1961(昭和36)年3月の起訴状では「旅館業」になっており、「元・日本閣共同経営者」が正確だろう。「カウ」は口頭では「こう」と呼ばれていたようだ。
読売の同じ紙面には「“三行半”(離婚請求)も女性から」が見出しの、「“女性上位時代”をはっきり裏づける」厚生省(現厚労省)の調査結果の記事が大きく掲載されている。このベタ記事だけではカウの「悪女」ぶりは分からない。
ホテル日本閣の夫妻が「ナゾの失踪」
時計を9年余り巻き戻して事件を振り返ろう。第一報は地元紙の1つ、栃木新聞(以下、栃木)の1961年2月18日付社会面2段の記事のようだ。

