もう1つの地元紙・下野新聞の2月23日付「ニセ手紙、東京で投函」の記事では、偽装工作について県警刑事部長がインタビューに答えている。
「ウメさんの名前で昨年2月21日、『私を探さないでほしい』との書き置きを発見。筆跡鑑定の結果、ウメさんの直筆ではなく、鎌輔が東京の地質学の先生のところへ温泉の相談に行った時、書いて投函したことが分かり、日付も一致したのが大きな決め手になった」
下手な偽装工作が裏目に出たわけだ。鎌輔失踪の8カ月も前に、警察はここまで材料を集めていた。『栃木県警察史 下巻』の記述はさらに続く。
「ウメさんは殺されている」といううわさ
1960年5月13日、大田原市内で壊れた鍵を付けた中古自転車に乗っていた不審者を大田原署員が職務質問。当時日本閣雑役夫の大貫光吉(37)で、鹿沼市内で盗んできたと自供したので緊急逮捕した。窃盗容疑の調べの後、日本閣の内部事情についても参考までに聴取すると、大貫は「ウメさんは殺されている」といううわさが立っているが、家出したのが本当だ、と強調した。40日後に保釈になったが、身元引受人はカウほか1名であり、以後は大貫に対する内偵も進めることになった。だが、ウメ失踪事件は他殺の確証が得られないまま時が経過した。
同書はカウのそれ以前の足取りにも触れている。
カウは埼玉県熊谷市で自転車卸業をしていた小林秀之助と暮らしていたが、1952(昭和27)年ごろ、秀之助が病死。1954(昭和29)年ごろ、塩原温泉に移ってきた。その後、漬け物販売の物産店を開き、着々と業績を挙げて、近くに飲食店も経営するまでになった。1958(昭和33)~1959(34)年ごろから日本閣に出入り。ウメの失踪後は日本閣の経営に腕を振るっているとの風評もあり、塩原町ではもっぱら、カウが日本閣を乗っ取るため、鎌輔と共謀してウメを追い出したといううわさが立っていた。
1961年1月、日本閣に出入りしている人から「近頃、鎌輔の姿が見えない。金策に出かけたまま帰ってこないという話だ」との情報が寄せられた。
ウメに続いて鎌輔まで姿を消すとはますます不審。大田原署では県警本部と協議。殺人容疑事件として2月14日、捜査本部を設置して事件解決に全力を挙げることになった。
その結果、カウに対する容疑が濃くなるとともに、鎌輔失踪後は大貫の態度も急変。カウとなれなれしく口を利くようになるなど、数々の疑点が浮かび、両名の犯行と合理的に推理できる状況になった。
そして、ついに強制捜査に――。