──どのような違いですか?

押川 たとえば、目の前で子供が自傷行為を図ったら、まずは救急車と警察を呼びますよね。それが対象者の命を最優先で考える、精神保健福祉分野での「正解」です。たとえ本人に病識がなくとも、命の危険を感じたら、迷わず医療、場合によっては警察につなげる。それが常識です。

 ところが、児童福祉の分野では、救急車も警察も呼びません。まずは対象者の意向を確認する、というのです。大げさに言うと、たとえ命の危険にさらされたとしても、本人が希望していなければ、医療にもつなげないのが「正解」であり、警察を呼ぶなど論外なのです。

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©細田忠/文藝春秋

 この考え方を知った時は、大きな衝撃を受けました。

──人命よりも本人の尊厳を重視するということなのでしょうか。

押川 病識がない患者は本来、自分が病気だという認識を持てない点が、精神疾患である所以です。しかしこれが福祉の領域になると、「本人が病気ではないと言っているのだから、病気ではない」という考え方になります。児童福祉分野もこれを踏襲していて、前述のケースの場合は、「本人が望んでいないかもしれないのに救急車を呼ぶなんて、人権侵害だ」というロジックが成り立ち、訴えられる可能性もあるわけです。

 児童養護施設に携わるようになったときに私は、当時、施設長を務めていた人物から「この業界ではそれがスタンダードな考え方だ」と説明を受けました。

本当に必要な子供に支援が届いていない

──『それでも、親を愛する子供たち』の【ケース2】では、義母から体罰や虐待を受けていた高梨勇也が、それでも家に帰りたいと申し出たことで、家に帰りましたが、「帰りたい」と本人が望めば、虐待を受けている子供も親元に返さなくてはいけないという理屈が通ってしまうのですね。

押川 子供が親や家庭を恋しがるのは当然ですが、私には家庭への憧れが手に入らなかった怒りや恨みが、「家へ帰りたい」という思いを生み出しているようにも思えます。これは一種の「呪い」とも言えます。

 最近は、児童福祉の分野でも精神保健福祉分野同様に地域移行が進んでいて、児相で一時保護された子供が児童養護施設に入所できず、親元に帰されてしまう構造になっています。

 【ケース3】で紹介した堀ちとせのケースも、まさにそうでした。子供の異変に気づいた民間支援団体の職員が、役所に何度も実父からの性的虐待被害を訴えていたのに役所はまったく動かない。最終的には、その支援団体の代表が役所に怒鳴り込んで、ようやく事態が動きました。ちとせのように、本当に支援が必要な子供ほど児童養護施設にたどり着けないのが現状なのです。

父親から性的虐待を受けていた堀ちとせ 『それでも、親を愛する子供たち』3巻より

『「子供を殺してください」という親たち』は、精神保健福祉分野に対する問題提起でしたが、『それでも、親を愛する子供たち』は、児童福祉分野に対して、本当に必要な子供に支援が届いていないことも問いかける作品だと思っています。表も裏も含めて児童養護施設を知ってもらい、たくさんの人々の目が入ることで子供たちが健やかにたくましく生きる場所をつくっていく。それが、私の生きる目標にもなっています。

──『「子供を殺してください」という親たち』『それでも、親を愛する子供たち』はどちらのシリーズも大きな反響があり、社会的にも非常に意義ある作品だと感じます。

押川 親の虐待やネグレクトにさらされている子供たちにとって、無関心は「死」につながります。読者からは「我が家(あるいは周囲)と同じです」という反響と、「知りませんでした」という反響がありますが、私たちが増やそうとしているのは、この後者のパターンです。

 2024年の24時間テレビでは、タレントのやす子さんが全国の児童養護施設のためにマラソンをしてくれたことで、児童福祉分野への関心も高まりました。これを追い風ととらえ、私も『それでも、親を愛する子供たち』を発表することで、児童養護施設に入所する子供たちの実態を伝え続けていきたいと思っています。

 実は本作に力を入れるために、事務所もスタッフも児童養護施設の近くに移転させました。そのくらい全力で向きあっていかないと子供たちの未来は守れないという強い使命感を持っています。

 精神保健福祉分野での経験を生かして児童養護施設の現場で奮闘していく経験も、今後漫画で伝えていけたらと思っています。

次の記事に続く 「子供との身体接触は禁止なのに」ずっと肩車をやめない職員も…理事長が明かす“問題山積み”の児童養護施設のリアル