複雑な世界、汚れた人間の欲望

 しかし、果たしてそれが技術的に可能だったとして、人間はそのような世界をどこまで拡大することを望むだろうか。別の言い方をすれば、人間は自分だけの唯一の個別世界と無限の多様性に耐えられるほどタフだろうか、ということになる。

 実際、「自律・分散・協調」のスローガンをもとに、スケールと多様性を両立させるはずだったインターネットの見た夢は逆説的な結末をもたらそうとしている。 ネット技術は多様な情報や価値観への扉を開いたにもかかわらず、人々はむしろ自分と同じ意見だけが反響する「エコーチェンバー」へと閉じこもり、ネット空間は偶然性を排した同質のコミュニティが無数に乱立する分断の地獄絵図となった。個人をエンパワーするはずだったGAFAMは個人を統計的に管理するデジタル空間の超巨大権力となり、これをさらに乗り越えようと仮想敵にしたweb3/クリプトの時価総額トップ層には(BTCとETH以外は)ステーブルコインや中央集権的チェーンが名を連ねている。技術が可能にする「無限の多様性」と、人間が心理的に求める同質性への安心感や認知的な単純さとの間には深い溝が存在している。

 また現実世界を見ても、多様性を求めて複雑化し流動化する社会への反動のように、むしろ強力な「一元性」への回帰を志向する動きが世界を取り囲んでいる。プーチンは1万台を超える戦車をウクライナ国土へ走らせ、アメリカでは王冠を被るトランプ大統領が新聞の表紙を飾り、帝国主義的な世界の復権さえ感じる時代が到来したように思える。人間は真なる超越性が不可能であっても小さな超越性を求め、自我の欲望を拡張するために画一的なスケール拡大に邁進する。

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トランプ大統領 Daniel Torok, Public domain, via Wikimedia Commons

 人間は、自らの存在の有限性や不確かさに対する深い不安を抱えている。生きていることのどうしようもない不安さ。それを埋めるために人は他者の欲望を欲望し、貨幣、権力、地位といった一元的な価値規範に強く惹きつけられ、(つい)には「神」という超越的な価値規範を求めてきた。本書で「退屈で、古く、汚く、遅い」と呼ばれている、生身の人間の身体にまとわりつくノイズ。これを人間から取り去ることができるだろうか。AIによる超合理的なシステムは、この人間の根源的な生を変えるのだろうか。数千年にわたってあらゆる技術が進歩しても、人間は欲望に突き動かされ、不合理な家族や共同体との絆を求め続け、その共同性を束ねる象徴としての「神」を祀り上げてきた。人は汚らしい身体と感情の混じり合った人間という総合的な存在に執着し、欲望し、愛し憎悪する。そうしてその不合理な人間自身の存在に耐えきれずに神を求める。

ミケランジェロ『アダムの創造』

 すなわち、本書が主張するように、人間は複雑すぎる社会を認知できる能力を持たなかったがゆえに単純で一元的な価値尺度を持たざるを得なかった(ゆえにAIが複雑さを処理できるようになればそれは消滅する)のではなく、むしろ逆に、人間は複雑な価値尺度に耐えきれず、それを拒絶するために単一の価値尺度を欲望してきたのではないか。本書が言う「測れない価値」に耐えられない人間は、それを測るアーキテクチャや価値規範をどうしても設計しようとするのではないか。それゆえ筆者は、AIによってあらゆる人間行動が調整される社会像にも同意しつつ、しかしそれゆえに人間は超越的で単一的な価値をいっそう希求するのではないかと考える(それは、宗教的な力の回復でもある)。

次の記事に続く AIはマルクス主義の夢を見るか? 技術ユートピア論ではなく重要な思想書のひとつ