大久保公園は、旭町の徒歩圏内にある。客付きの良い場所があれば男性客や街娼たちの間で評判になり、自然と人が集まってくるのも自明の理だ。整理すれば、それらがあいまって交縁が形成されていったとすれば、納得がいったのである。

 大久保公園に街娼たちが集まり始めた経緯はわかった。だが、改めて調べてみると前述の理由に加えて、全く異なる事情の街娼たちも少なくないようなのだ。別角度から見てみよう。

大久保公園付近に立つ女性の中には20代や、下手をするとそれ以下に見える若い女性も多い ©文藝春秋

 1945年8月14日――日本が第二次世界大戦で敗戦したことが、江戸時代の街娼である夜鷹と現代をつなげる始まりだった。

ADVERTISEMENT

「奥さんが、お嬢さんが、米兵に乱暴されてもよいのか」

 当時の警視総監・坂信弥は終戦3日後の8月17日、東京料理飲食組合の役員を集めて慰安施設の設立を依頼。そして同年8月26日、特殊慰安施設協会(RAA・Recreation and Amusement Associationの略)が発足する。

 RAAとは、進駐軍兵士による強姦や性暴力を防ぐために日本政府の援助により東京を中心に設置された慰安所。つまり管理売春宿を中心とした進駐軍用の慰安施設である。戦後は進駐軍兵士による日本人女性への強姦が相次いだとされているが、終戦3日後にその状況を予測して売春施設を設けていたのだ。

 第一号慰安所は、東京・大森海岸の料亭だった建物を改装した国営売春施設『小町園』。同年9月3日に毎日新聞に掲載された「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給 前借にも応ず 地方よりの応募者には旅費を支給す」という募集広告により、敗戦で家族や職を失うなど生活に困窮した1600人もの女性が集まったとされている。

「奥さんが、お嬢さんが、米兵に乱暴されてもよいのか」

 そんな文句で売春キャンペーンは展開された。

新宿近辺には当時の面影を残す通りが残っている 筆者撮影

『日本風俗業大全』(現代風俗研究所・データハウス)によれば、東京・銀座から築地の近辺に存在した『三松』、横浜・山下町のアパート『互楽荘』、東京・吉原の遊郭町や神奈川・横須賀の置屋もRAAに加わったとされている。

『小町園』などの新たに作られたRAA施設はすべて1階がダンスホールになっており、ダンスやアルコールを楽しみながら女性を選び個室に移動して性行為を行うスタイルだ。

 RAA専用施設は進駐軍兵士のみが利用できた。ただし、吉原などの「旧遊郭の場合は日本人も今まで通り利用できた」という。