『台湾人の歌舞伎町――新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子/青池憲司・紀伊國屋書店)は、このRAAがかつて、大久保公園からほど近い、歌舞伎町を東西に抜ける『花道通り』(「西武新宿駅前通り」から「新宿区役所通り交差点」までの細い道路の俗称)を挟んだ真向かいにあったことも伝えている。
〈(歌舞伎町商店街振興組合・初代理事長の)藤森作次郎は、1947年6月、購入敷地に旅館を建てた。郷里の上諏訪から蔵の解体材を運び込み、組み立てたのである。
堅牢な柱、梁、床材で組まれた風雅な雰囲気を持つ蔵屋造りの旅館に、諏訪湖を一望できる高台にある菩提寺教念寺の藤森家墓所に咲く芙蓉の花に因んで『芙蓉館』と命名した。入り口近くにダンスホールを設け、25室の部屋数を有する芙蓉館は彼の思惑どおり、連日、進駐軍兵士と彼らを相手にする女性たちで賑わった。どのような伝で入手したのか定かではないが、1947年8月、進駐軍兵士の慰安所を提供する目的で設立されたRAA特殊施設部の認可証を武器にしていたのである。〉
戦後に新宿の復興の一翼を担った藤森は、職安通りと西武新宿駅前通りのぶつかる角地、現在『東急歌舞伎町タワー』(旧サウナ&カプセルホテル『グリーンプラザ新宿』)がある土地約200坪を優先的に、かつ廉価で分譲してもらった。つまりRAA『芙蓉館』は、大久保公園の目と鼻の先にあった。
売春で生きることを覚えた女性が元の生活に戻れないことも
ここに、もう1つの事実が加わる。RAAは進駐軍向けの売春窟であると同時に、比較的裕福な米軍将校が現地妻(愛人)を探す場所でもあった。当時の日本は敗戦国であり、カネも力も持った米兵の愛人になることで、安定した生活を手に入れたいと考える女性も多かった。いまで言う「太い」「定期」の客である。
しかし進駐軍の将校と愛人契約を結んだところで、相手は遠くない将来、母国へ帰ることになる。そのとき、日本に残された愛人はどうなるか。売春によって生きることを覚えた女性が元の生活に簡単に戻れないのは、いまも昔も変わりない。
横浜には70歳を超えても白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレスで街に立ち、“ヨコハマメリー”と呼ばれた伝説の街娼がいたが、彼女も戦後、関西の慰安所で働いていた。その慰安所は元は料亭だったが、進駐軍相手の商売に切り替えていたのだ。

