メリーはRAAで知り合った米軍将校の愛人になった。その後は米軍将校を追って上京するが、愛人関係は長くは続かなかった。朝鮮戦争により米軍将校が現地へ赴くと、戦争が終結した後も米軍将校はメリーの元へは帰らなかった。ひとりになり生活に困ったメリーは、横浜・伊勢佐木町へ移動してパンパンとしての生活を始める。
パンパンとは、在日米兵相手の街娼の俗称だ。戦災で家族や財産を失い、生活に困窮して連れ込み旅館でカラダを売った。『戦後史大事典1945‐2004 増補新版』(三省堂)によれば、1947年時点で東京に3万人。横浜、名古屋、京都、大阪、神戸を加えた6大都市の合計で4万人のパンパンがいたとされている。メリーもそのひとりだったことになる。
RAAで働くこと。進駐軍の将校の愛人になること。相手とはいつか別れが来ること。生活のために路上に立つこと。いくつもの類似点を精査すると、白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレス姿で街娼をし、関西のRAAで働いた経験もあるメリーこそ、夜鷹から交縁までを紐付ける論理面の支柱だと気づかされたのだ。
進駐軍の客が付かなかったときは、付近の路上に立った可能性が…
話をまとめよう。
芙蓉館に集った女性たちは、将校たちの性処理の相手をしながら、現地妻として愛人生活を送るが、やがては別れる日が訪れる。このとき、体を売ることを覚えた女性のなかには、メリーと同じように生活のため路上売春を選択する者も少なくなかったことだろう。問題は「どこに立つか」だけだ。
彼女たちの目と鼻の先では、旭町のドヤ街を根城にした街娼たちが、夜な夜な路上に立ち、客を引いていた。捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、彼女たちの中には、手近な新宿の街娼へと流れていく者も少なくなかったのではなろうか。そうでなくとも、芙蓉館で働きながら、進駐軍の客が付かなかったときは、付近の路上に立つ女性がいた可能性も高い。
そして彼女たちは、数多の街娼たちと混ざりあい、やがて街娼の多さが評判になり、どこの誰とも分からぬ女性たちが春を売るために集まってくる、新宿の売春エリアが形成されていった――以上の見立てが確かならば、大久保公園が“交縁の聖地”になるルーツの1つはRAA『芙蓉館』にあったことになる。
