米軍との、勝利の見込みのない絶望の戦い

 米軍は18万を超える地上兵力、およそ1500隻の艦船など圧倒的軍事力をもって沖縄に挑み、「鉄の暴風」と言われた猛烈な艦砲射撃や空襲を繰り返し、美しい沖縄の山野を激変させていった。迎え撃つ日本軍の総兵力は約10万と劣勢で装備も劣る上、3分の1は防衛隊や学徒隊など沖縄の人々を現地召集した補助的戦力に過ぎなかった。翁長さんはそこに加わったわけである。

 4月1日、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)に上陸した米軍は南北に分かれて進撃、日本軍は地下壕の陣地に立てこもって持久戦法をとった。本土決戦の準備のため時間稼ぎをし、少しでも米軍の戦力を削ぐことが目的の、勝利の見込みのない絶望の戦いだった。人の暮らす街や村がそのまま戦場となり、米軍は日本軍守備隊・第32軍の司令部が置かれた首里城を目指し南進していった。

沖縄を攻撃する米軍 ©getty

沖縄の少女たちが夜間に聞いた「悲しい音」の正体

 そのころ、翁長さんは「悲しい音」を何度も聞いている。

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 取材時、同席していたひめゆり同窓会の与儀毬子(よぎまりこ)さんも同じ体験を持っていて、「あの音は忘れられないね」という。翁長さんら永岡隊は那覇・識名に配置されていた。

「識名は湧き水があって綺麗なところで西海岸が一望に見下ろせる丘がありました。那覇の町、慶良間諸島、浦添(うらそえ)まで全部見渡せます。4月の上旬でした。(米艦隊は)しょっちゅう照明弾を打ち上げていますし、サーチライトもね、もうあの軍艦からもこの軍艦からも照射するんですよ。結局は、蜘蛛の巣にかかった蚊みたいに、撃ち落されて。すごいうなり声を出すの。軍艦に突っ込むどころか、海にですよ、うーーん、という、悲しい音。もう、あれを見た時にね。どうしてもね、涙が止まらなかった」

与儀毬子さん(左)と翁長安子さん(撮影=フリート横田)

 与儀さんも目をうるませた。「悲しい音。サーチライトがね、十字に重なってね、その真ん中に飛行機が入ったらもう、だめ」

 夜間、米軍の攻撃が休止したときを狙って、九州から決死の思いで飛来してきた特攻機だった。多くは米艦隊に近づく前に、空気を裂くようなエンジン音を立てながら暗い海に落ちていった。若い青年が次々に亡くなっていく光景を、沖縄の少女たちは息をひそめて見守っていた。