地上戦の地獄を話すには、時間も精神的負荷も大きくかかり…

 沖縄という1つの県で、今も健在な戦争証言者の母数は本土と比べ少ないはずだし、3か月に渡る軍民入り乱れての地上戦の地獄を話すには時間も、精神的負荷も大きくかかり、90代を超える本人がよくても家族が止めることもあるのだという。あらためて戦後80年が経過したことを痛感する。

沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑・ひめゆりの塔(撮影=フリート横田)

 そうした状況下、電話でひとしきり質問のやりとりをしたあと、翁長さんは、

「ごめんね、厳しいことを言って。……では、いつ会いましょうか」

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 最終的に取材を受けてくださった。後日、指定された那覇・栄町市場内にある「ひめゆりピースホール」に筆者は向かった。前述の2校は、戦火で焼け落ちてしまったが戦後再建されず、同じ場所にひめゆり同窓会館が建てられ、2階がこのホールとなっている。2校出身の同窓生が今も集い、コーラスを楽しんでいた。

 取材の場には、元隊員で、ひめゆり平和祈念資料館館長もつとめた女性を含め、90代女性6名が同席してくれた。翁長さんは記憶鮮明。彼女の近年の証言、昭和50年代に聞き取られた証言と、今回取材の内容を後日照合してみたが、ほぼ同じで矛盾はなかった。以後、ウェブ記事として読むには少々長いが、ぜひお目通しいただきたい。

15歳で永岡隊に入隊し、激戦地にいた翁長さん

――時間を80年前に巻き戻す。

 昭和20年3月17日、硫黄島の日本軍守備隊は全滅した。米軍はついに太平洋に展開していた戦力を沖縄へ向ける。26日には那覇市西方に浮かぶ慶良間(けらま)諸島に上陸を開始。沖縄戦がここに開始された。

 当時一高女の2年生、15歳だった翁長さんは、3年生以上の生徒で構成されたひめゆり学徒隊に入隊するには若すぎたが、地元沖縄の人々で構成された郷土部隊、通称「永岡隊」(特設警備第223中隊。中隊長・永岡敬淳大尉)に志願し、入隊した。

 永岡隊長は、那覇にある安国寺という寺の住職でもあった。一高女は勤勉な女性たちが通った名門校。それは当時の教育をしっかり身に着けていたということ。「はい、軍国少女でした」翁長さんは頷く。

首里高校の向かいにある安國寺。首里攻防戦の激戦地にある(撮影=フリート横田)

 3月末に入隊して、以後3か月に渡って従軍、炊事と看護の要員として南部の激戦地を転戦していった翁長さんの歩みは、沖縄戦の推移とほとんど一致している。そのため以後は、両者を平行して記していこうと思うが、こう書いていても、最前線、これほどの激戦地にいた翁長さんが現在ご健在でおられることが、改めて奇跡のように思われてくる。