翁長さんも米軍のグラマンに機銃掃射された
翁長さんも米軍のグラマンに機銃掃射されたり、砲弾と銃弾をさけながら命がけで水や食料を運び続ける。だが日本軍はじりじりと押され、永岡隊も今帰仁森(なきじんむい)の陣地壕(久保田山壕)に移る。そこで1年生のときの担任と偶然再会する。教師は、戦場に留まる少女を不憫に思い、隊長の永岡大尉に紹介した。
じつは隊長にも一高女に通う娘がおり、翁長さんと同学年だったこともこのとき分かった。娘はすでに九州に疎開していた。以来永岡は翁長さんを娘のように思い、その姿が見えなくなると、「安子はどこへいった」と気に掛けるようになった。
翁長さんが同じ日本人に殺されそうになった理由
しかしこの壕付近で、翁長さんはあるとき、突如殺されそうになった。殺意を向けてきたのは、同じ日本人だった。
数時間壕を出て戻ってくると、突如「誰だ」と声をかけられ尋問されてしまう。浦添方面から南下してきたと思しき日本兵だった。翁長さんは永岡隊長の名を答えたことでなんとか解放される。――だが、すぐそばで同じように尋問されていた男性は何も答えられずにいた。沖縄人の風貌をした彼が聴覚障害者らしいとすぐ気づき、兵士らに伝えたが頑として聞き入れない。「スパイだ」。おそらく彼は、あのあと殺されただろう、という。
このころ、たとえ受け答えができても標準語で話さないと危険だった。当時、沖縄方言の使用は厳しく禁じられ、「沖縄語を以て談話しある者は間諜(スパイ)とみなし処分す」とされていた。
同じ国の者同士なのに、守るのではなく疑い、場合によっては簡単に殺害する。日本軍が沖縄の人々をどうみていたかが、この一例からも伝わってくる。
ひめゆり同窓会の与儀毬子さんの父も、スパイを疑われ惨殺された
取材時、翁長さんの横で静かに話を聞いていたひめゆり同窓会の与儀毬子さんの表情がここで一変した。北部で校長をしていた父は軍に協力したにもかかわらず特殊潜航艇の部隊だった海軍軍人たちにスパイと疑われ、惨殺されていたのだった。聴力が弱かったために質問に答えられなかったためのよう。
「満州、中国でやったやり方と同じ。同じ日本人だという意識がないの。すぐにスパイとみてね。どうして父がスパイなんかするの。戦後、私の家族もお酒を飲んだりすると、『スパイといったやつは出てこい』と大通りを馬に乗っていったりきたり、大声で叫んだこともありました」

