「戦車砲がボーンと1発飛んできた」翁長さんを襲った惨劇
戦中、戦後すぐの遺族の心も荒れ果てていたころを思い出し、与儀さんの目は怒りと悲しみで急にうるんだ。翁長さんもうなずく。
「植民地と一緒だったね」
翁長さんら永岡隊がたてこもった久保田山壕からは日々、兵士たちが斬りこみに出ていったが、昭和20年5月に入ると、首里防衛の戦いは苛烈さを増し、米軍は20万発もの砲撃を加えたと言われている。シュガーローフヒルと呼ばれた丘(日本側名称・安里52高地)を巡る攻防戦は沖縄戦でもっとも激しい戦いとなり、日本軍はもとより、米軍にも大きな被害が出ている。
16日ごろ、永岡隊は、隊長が住職をつとめる安国寺の壕へ移る。現在の首里高校付近にあった壕である。32軍司令部のおかれた首里城からたった400~500メートルしか離れていない。ここで翁長さんは惨劇に遭う。
「29日の朝4時頃。水汲みに行って戻ってきたら、ゴーと戦車の音がしたんですよね。そしたらトンボ(米軍偵察機)も飛んできた。いつも朝6時頃しかトンボは飛ばないのにおかしいなって思ったら、戦車砲がボーンと1発飛んできた。しばらくしたらまた2発目が飛んできたんですよ。何分も経たないうちに、そしてすぐ火炎放射器」
「何もかも、人間とも思えないように焼かれていく」
奥行き20メートルほどの壕内には兵士や翁長さんら女性たち20数名がいたが、土嚢や枠材が燃え上がり煙が充満、追い討ちをかけて黄燐弾(おうりんだん)が投げ込まれ息もできない。奥にいた翁長さんの着ていた雨合羽にも火がついたが、永岡隊長が軍刀でたたき消し、「防毒面(ガスマスク)をかぶれ!」の命令に従い煙のなかで息をひそめた。しかし、壕入口付近にいた兵士たちはひとたまりもなかった。
「何もかも、人間とも思えないように焼かれていくわけ。もう、のたうち回って。でもどうにも手もつけられない」
熱い、熱い、と兵士たちが叫ぶ声が壕内にこだましたあと、今度は壕の天井からギリギリという音が響いてきた。やがて轟音とともに岩が崩落。壕内に立てこもる日本軍を掃討するため、米軍は壕の上部に穴を開けてガソリンや爆弾を投下したり、火炎放射器で焼き払う戦術をとった。これを「馬乗り攻撃」といった。
