2人とも大学を中退、「爆笑問題」を結成
その後、田中はわずか1年半で、太田も3年で大学を中退、それぞれ演技塾に通ったり劇団に入ったりしながら、やがて、コント赤信号の渡辺正行が主催していたお笑いライブの新人コント大会に出場しようと太田が田中を誘い、コンビを組む。「爆笑問題」の名で初めて立ったそのステージでネタが大ウケし、すぐ芸能事務所にスカウトされ、デビューを果たすことになる。出会って4年後、1988年のことだった――。
爆笑問題の半生をドラマ化したら面白そうだという思いは、昨年(2024年)、太田光代社長が『文藝春秋』で連載した「お笑い社長繁盛記」(聞き手・構成はノンフィクションライターの石戸諭)を読んでさらに募った。
タイタン設立の真相は?
いままで爆笑問題の二人が語ってきたものの、どこかあいまいで詳細がいまひとつわからなかったのが、この連載によってあきらかになったことも少なくない。とりわけ、爆笑問題が最初に所属した太田プロダクションから、1990年に当時のマネージャーにけしかけられる形で強引に独立したために、数年間ほとんど仕事がなくなってから復活するまでの経緯については、これでジグソーパズルのピースがすべて埋まった感がある。このころ、光代社長はタレントとしてやはり太田プロに所属し、彼らが独立したあとも残り、さらに太田と結婚したために、否応なしに両者を取り持つ役を担うはめになった。
従来は、1993年に二人が復帰を期してNHK新人演芸大賞に出場し、大賞を受賞したのに続き、テレビ朝日『GAHAHAキング爆笑王決定戦』で10週勝ち抜いてチャンピオンを獲得したのをきっかけに、光代社長が太田プロを辞め、二人をマネジメントするためタイタンを設立した……というふうに説明されてきた。
しかし、じつは太田プロ側は、二人が賞レースをあいついで勝ち抜いたのを受け、これまでのことは水に流して再び迎え入れる意向を示してくれていたという。それにもかかわらず、結果的に爆笑問題はこの話を断っている。
それというのも太田のなかで、たとえ出戻って売れても、事務所には自分たちがまた出ていってしまうのではないかと不安を持たせることになるかもしれないと躊躇があったらしく、田中も彼に従ったためだ。この時点ですでに彼らには新たに仕事が入ってきており、光代社長は二人をマネジメントする必要に迫られ、太田プロを辞めて事務所を設立した……というのが真相のようだ。

