どぎついネタが注目されたが…テレビでできることを模索するように
筆者が二人の演じるネタに接したのはもう少しあと、再ブレイクの兆しを見せていた1995年末、早稲田大学の落語研究会が主催する「早稲田寄席」に爆笑問題が出演し、部員だった友人にそのときの録音テープを聴かせてもらったのだ。年末とあって1年の出来事を振り返るネタで、今年起きた地下鉄サリン事件もきっと将来は歴史の教科書に載り、年号を語呂合わせで覚えることになるだろうとして、「人喰い急行(1995)地下鉄サリン」というギャグが出てきたのを妙に覚えている。
当時でさえ、テレビではサリン事件のような凶悪事件は笑いのネタにはほとんどできず、その分、ライブでどぎついネタが増えていったらしい。また90年代のこの当時、お笑い通を気取りたがるファンは、その手の“テレビでできないネタ”をことさらに持ち上げがちだった。しかし、太田はそうしたファンにやがて背を向け、テレビを見ている世の大多数の人たちを相手に自分たちのできることを模索するようになる。
「『放送禁止ライブ』とかって、結局はつまらないんですよ」
これについて彼は数年後のインタビューで、《「放送禁止ライブ」とか言って、実際そっちに行っちゃった芸人もいっぱいいるけれど、でも、そういうライブって結局はつまらないんですよ。客もいやな客しか来なくなるし。そのものズバリのネタにも飽きてくる。/やっぱり、みんなが安心して見ることのできる、ある境界線を守りつつ、その中で工夫しながら笑いを作っていくほうが、ずっと世界が広がるし、ネタとしていいものもできる》と説明している(『広告批評』1998年9月号)。
お笑いはその場でウケなければ話にならない
そもそも太田が田中とお笑いの道に進んだのは、大学時代、学内の小劇団が自己満足でやってるような芝居をさんざん見てきて、それに対してお笑いはどんなに理屈を並べても、その場でウケなければ話にならず、そこがカッコいいと思ったからだった。
太田の発言をずっとたどってみてわかるのは、彼が表現の有効性ということを常に考えてきたということだ。ネタをつくっても、多くの人に見てもらえなければ意味がない。テレビで許される範囲で表現の可能性を模索するようになったのには、そういう考えがあったことは間違いない。

