44人が犠牲となった01年発生の東京・歌舞伎町の雑居ビル火災でも、被害が拡大したメカニズムを解明した。
「科学的な立証で事件解決につなげることが『真の科学捜査』であり、自分の存在意義だ」
01年3月から半年間、刑事2課長として勤務した亀有署では、台帳を一枚一枚めくって防犯カメラの設置場所を確認する捜査員らを見てデジタル化の遅れを痛感した。警視庁本部に戻ると、「科学技術を駆使した捜査支援」の構築に注力。過去の事件を分析したデータを住宅地図に落とし込むなどし、パソコンで一元化する「DB-Map」や、防犯カメラ映像を迅速・鮮明に解析する「DAIS(ダイス)」といったシステムの開発を主導した。
03年には「犯罪捜査支援室」の初代室長に。「科学技術と捜査実務の間を取り持つことができる希有(けう)な存在だった」。警視庁刑事部長として捜査支援改革を進めた米田壯(つよし)・元警察庁長官は服藤さんをこう評する。
最高検の刑事部長に頼まれた「極秘任務」
「助けてもらいたいことがあります」。09年8月、一本の電話を受けた。声の主はオウム捜査で共に汗を流した鈴木検事。最高検の刑事部長に栄進していた。
三重県名張市で1961年に発生した「名張毒ぶどう酒事件」の第7次再審請求審への協力依頼だった。再審開始を認めるか下級審で判断が割れており、審理は最高裁に移っていた。犯行に使用された毒物を巡る鑑定が主な争点だった。
当時は52歳。所属長級への昇進が見えていた。再審の仕事は片手間ではできない。長期間かかり切りになれば、その後の警察人生で後れを取るだろうと思った。
だが、鈴木刑事部長が直接、依頼してくるということは最後の「頼みの綱」なのだともわかっていた。「事実を見極めるために力を発揮するのが科学者の務めだ」と考え、「自分にしかできない仕事」と引き受けた。裁判資料の読み込みから始まった「極秘任務」に約3年を費やした。
再審請求審は最終的に2013年10月、再審開始を認めない判断が最高裁で確定した。その間に警視庁では後輩に先を行かれていた。科学捜査や捜査支援を束ねる立場になり、組織をさらに発展させるという理想はかなわなくなった。