4月に入ると、捜査員と一緒に上九一色村の教団施設「サティアン」に向かった。サリン製造プラントとみられていた第7サティアンを調べた後、そばにあるプレハブ小屋が目についた。中に入ると有機合成物の独特の臭いが鼻をつき、使い込まれた実験器具が見つかった。
「ここじゃないか」
実験器具の付着物を鑑定すると、サリンが分解した時にしかできない「メチルホスホン酸モノイソプロピル」と呼ばれる化学物質が検出された。「サリンとオウムの結びつきが科学的に証明された」と確信した。
「彼なしでは事件解明は困難だった」
無差別殺人の疑いが強まり、警視庁は教祖の麻原彰晃こと松本智津夫・元死刑囚らの逮捕を決断する。5月15日の逮捕状請求の場では服藤さんは教団によるサリン製造を科学的な知見から裁判官に説明した。
しかし「教祖逮捕にはもっと証拠を固めるべきでは」と裁判官の腰は重い。そこに東京地検で事件の主任を務めていた鈴木和宏検事(現・弁護士)が到着し、「証拠は十分だ。今、教祖を逮捕できないなら、将来もできない」と熱弁をふるった。数時間後、41人分の逮捕状が出た。
16日、松本元死刑囚らが殺人・殺人未遂容疑で逮捕された。鈴木さんは「警察組織に服藤さんがいたのは大きかった。毒物に精通する彼なしでは事件解明は困難だっただろう」と振り返る。
捜査での科学の重要性が強く認識され、96年、警視庁は「科学捜査官」を新設した。初代の一人となった服藤さんは、研究員とは異なり捜査権限を持つ「警察官」としてのスタートを切った。
和歌山毒カレー事件での活躍
ただ、当時の捜査現場では科学捜査への理解は必ずしも十分ではなかった。「頭でっかちは要らない」といった声も聞こえてきた。
転機となったのは世間の耳目を集めた事件だった。
98年に和歌山県で4人が死亡した毒物カレー事件で、警察庁の求めで「指導官」として現地に赴き、毒物の特定に奔走。2000年に発生した英国人女性の失踪とそれに関連する性的暴行事件では、犯行が記録された映像などから被害者に投与された薬物を割り出した。